夕食後、リビングで裁縫道具を広げて服を縫っていたリンは、外から響いてくる異音に、ふと顔を上げた。













+++  Metamorphose ― 9 +++













「…何の音?」
中国で暮らしていた頃には聞いた事のなかった、何処か不快なまでに甲高い音。
暫く聞かないように意識していたが、鳴り止まない音に集中力が削がれていく――――あまつさえ、その音はわざわざリンのいる方へと近付いてくる。
「…あぁもうっ!!五月蝿いっっ!」
机の上に縫いかけの布地を放り出し、音の響いてくる方向――――ベランダへ通じるガラス戸を開けた。
…途端に今まで以上に大きくなった高音に慌てて耳を押さえ、顔を顰めたまま、ベランダから少しだけ身を乗り出し、音の聞こえる階下へと視線を向ける。
「…誰か倒れたのかしら?」
白い屋根の上で、赤いランプがくるくると回っている――――救急車から出てきた救急隊員の姿に、漸く状況を把握する。
「そう言えば…この間学校に行ってる間にも、2階に住んでる人が病院に運ばれたって言ってたっけ」
…数日前、学校から帰宅した時に、お隣から聞いた『本日あった出来事』。
引っ越してから僅か数日で把握した事だが、このマンションの入居者は、比較的高年齢の人が多く、
その上、入居者同士の交流も兼ねて、同好会を開くなど多趣味な人も多い。
その所為か、入居者の間で起こった出来事は、あっという間に隣近所の入居者へと広がっていく。
「…ま、でも、私が此処で見ていても如何しようもないわよね」
独り小さくごちると、リンは部屋へと踵を返し、ベランダの扉は再び閉じられた。





部屋に響いた叫び声も虚しく、伸ばした手は届かず、間に合うことはなかった。
「ゴウっ!」
カイは慌てて駆け寄り、床に倒れこんだゴウの肩を軽く揺すって呼びかけたが、ゴウの意識は戻らない。
それどころか、ゴウが倒れた方向に偶々隣に置かれていた、樫の木で出来たマガジンラックで頭を強打し、
更に床で頭を打った事が状況を更に悪化させ、こめかみに程近い側頭部に怪我をしたらしく、額から顔にかけて血が流れていく。
「…っち!レイ!」
カイが焦った声でレイの名を呼んだ時には、一足先にリビングから救急箱を片手に持って踵を返したレイが、
カイの正面、意識の無いゴウの脇へさっと座る。
「傷の位置は……っ!」
救急箱の蓋を開け、消毒液と脱脂綿を取り出し、ゴウの傷を診ようと、ゴウへと視線を向けたレイの顔色が瞬時に変わる。
…と同時に、意識のない筈のゴウが嘔吐を始めた。
「ゴウ!」
「カイ!この状態はまずい!早く救急車を呼んでくれ!」
荒い息を繰り返しているゴウを床にそっと横たえると、カイは電話のあるリビングへと走る。
レイは手早く傷口を消毒して脱脂綿を当て、包帯を巻くと、寝室から持ってきた薄手の毛布でゴウの身体を包み、
硬く目を閉じたまま、真っ青な顔をしているゴウの頬を撫で、何かに耐えるように目を閉じた。

…数分後に到着した救急車の去ったマンションの最上階の部屋には、箸が殆ど付けられていない、冷たくなった夕食だけが残されていた。










「…それでは、お願いします」
診察室から明かりの落とされた廊下に出て、カイとレイは今までゴウを診ていた医者へと一礼した。
数時間前に急患として運び込まれたゴウは、一通りの診察と、MRIによる脳の画像診断等の結果、『即日入院』という診断結果を宣告された。
外傷は右側頭部の裂傷と、打撲による腫れ。更に、風邪による体力低下、高熱による水分不足、打撲若しくは高熱による意識混濁、
側頭から後頭部にかけての打撲の影響で、脳が腫れていること――――『意識が戻らないうちは油断は禁物』だという事は、
医者に説明されるまでも無く、カイとレイにも判っていた。
「既に消灯時間を過ぎていますので…3階315号室、個室を用意させて頂きました。ゴウ君も既に其方です」
「今日は…此方に泊まってはいけませんか?」
「えぇ、毎日…は無理ですけど、今日は夜も遅いですし。
…目が覚めたのが見知らぬ部屋だったら、きっと吃驚されるでしょうしね」
『部屋へご案内しますね』と言って、看護士はカイとレイの先頭に立って廊下を歩き出した。





エレベータで3階に上がり、看護士は照明の落ちた廊下から手だけを伸ばして、315号室の明かりを付けた。
部屋の奥のベッドの中には、数時間前に意識を失ったままのゴウの姿。
ベッドサイドには幾つかの医療機器が置かれ、そこからゴウの額や腕、身体に何本かの電線が伸び、
画面には脳波と心拍数を示す波が一定表示されている。
その隣には点滴パックが吊るされ、右腕と左腕に其々点滴用のチューブが伸びている。
「自発呼吸状態ではあるんですけど…此方に来るまでに嘔吐されたと聞いたので、意識が戻るまで脳波と心拍数を記録します。
点滴は…丁度起床時刻位に終わると思いますので、終わりましたらナースコールで呼んで下さい。
…他に何かありませんか?」
「いえ、後は特に何も…」
「そうですか。…では、出来るだけ早めに部屋の明かりを落として下さいね」
「「どうも有難う御座いました」」
カイとレイが再度一礼し、看護士はボードを持って退室していった。





既に時刻は夜半を回り、2人が気付かないうちに、日付が変わろうとしていた。




















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