午後18時。
書類を持って、何かと追い縋ってくる部下達を只管無視し続け、カイは表で待っていた車の後部座席へ乗り込んだ。
今日はレイが家に来ている筈だから、何時ものようにそう急いで帰る必要はない。
…併し、どうも朝見た息子の様子が気になって仕方ない。
一つ溜息を吐いて視線を向けた車外の窓から見える空は、日が落ちる前の僅かな陽光が反射していた。













+++  Metamorphose ― 8 +++













ゴウは幼い頃の自分のように、ロシアの寒冷地帯で暮らしていた訳ではない。
両親揃って海外へ仕事に行く事も少なくなかったが故に、多少、一般の家庭よりは海外で過ごした経験は多いが、それでも長期的に暮らした事は無い。
ブレーダーとしての基礎体力もある方だが、それでもゴウと同じ歳だった頃の自分と比べれば“弱い”部類に入るだろう。
ゴウはどちらかと言うと『普通の子供』だ。…祖父に操られていた自分とは違って。
…寧ろ、『そうなるように育てた』と言った方が正解かも知れない。
5年前、火渡の本家で暮らしていた時も、ありとあらゆる手を使って祖父からゴウを遠ざけていた事は、紛れも無い事実なのだから。

…これ以上、人生を滅茶苦茶にされては堪らない。
あの極寒のロシアの地で陰謀が潰え、更に年老いたとは云え、今だ何をしでかすか判らない、祖父の下らない茶番の為に、
ゴウの人生を滅茶苦茶にさせはしない――――…

…それが“アイツ”と交わした、『契約』の一部。
そして―――…“契約終了日”は、限りなく近い。




「…イ様、カイ様!」
「…っ、…何だ」
「いえ、マンションに着きましたが…何処か具合でも…?」
「…いや、何でもない」
ゆっくりと首を振って否定すると、脇に置いてあった書類ケースを手に車外へ出る。
ドアを開けた運転手は丁寧に礼をすると、
「ではまた明日8時にお迎えに上がります」
「あぁ」
何処か心在らずな声でそう答えると、カイは車外に出て、見送る事なくマンションの入り口へと向かった。
…会社を出た頃よりも更に闇の落ちた街には、色とりどりの灯りが灯り始めていた。





「…熱?」
普段着に袖を通しながら、相変わらず端的に返事を返すカイの部屋の入り口に凭れ掛かり、
透明なプラスチックケースに入っている体温計を手に持ったままレイが口を開いた。
「あぁ、多分な。…今までずっと体温計探してたから測れてないけど、ゴウ君、帰ってくるなり俺に飛びついてきてさ…
暫くして、ゴウ君が妙にぐったりしてるのに気付いたから」
「朝から顔色が悪いとは思っていたが…矢張り休ませるべきだったな。……今は部屋か?」
「あぁ。でもそろそろ夕食なんだけど…一応御粥を作ったんだが、起きれるか…」
「そればかりは本人に訊いてみないと判らないな」
「そうだな…じゃあ俺は夕食の用意するから、カイはゴウ君を起こしてきてくれ」
「判った」
そう返事を返すと、ダイニングへ戻って行くレイとは逆の方向にあるゴウの部屋へと向かった。










遠くで自分の名前を呼ばれたような気がして、ふと目が覚めた。
水底から浮き上がるような感覚を覚えながら、ゆっくりと目を開けた正面には、此方を心配そうに見つめる父の顔。
「…大丈夫か?」
「うん…何とか」
そう答えるものの、実際は身体中が倦怠感を訴え、頭には時折刺すような鈍痛が続いている。
…正直、あまり『大丈夫』な状態ではない。
併し、目の前の父親を心配させたくなくて、ゴウは熱っぽい身体を無理矢理動かして、上半身をベッドの上に起こした。
「夕食…食べれそうか?」
額に冷たい手を当てられながら問われ、こくんと一つ頷く。
額に手を当てていた父は、一瞬眉を寄せて難しそうな顔を見せたが、上掛けの布団を横に退けると、
少しふらついているゴウの手を引いて、歩調を併せながらゆっくりとダイニングへと向かった。



「…良かった。起きれないようなら、ベッドサイドまで持っていこうかと思ってたんだけど」
机の上の皿に料理を盛り付けていたレイは、カイの横にゴウの姿を認めて、小さく微笑んだ。
「でも、食べる前にちゃんと熱測っといた方が良いよな」
そう言ってゴウの正面に差し出されたのは、水銀式の体温計。
「お前…救急箱の中に電子式体温計を入れてあっただろう?…気付かなかったのか?」
『この家を一番良く把握しているのはお前のくせに、態々買いに行って来たのか?』と、ゴウの横で何処か呆れたような声を出したカイを尻目に、
「電子式は体温結果が狂う。…水銀式の目盛りを振り切るような高熱の場合なんかは特にな」
食器棚からコップを取りながら、レイはしゃあしゃあと答える。
「水銀式体温計の目盛りを振り切るような高熱が出てたら、もう意識はないだろうが」
更に呆れた声で返事を返せば、
「こっちの方が、測定結果が正しく出るから好きなんだよ。…あ、そのまま5分間じっとしていてくれ」
食卓の椅子の背凭れへぐったりと凭れ掛かったゴウの前に、温かい緑茶を注いだコップを置きながら、レイは視線でカイにも座るように訴える。
…自分達がチームを組んでいた10年以上前から、何故か両者揃って隠れ得意技であるアイコンタクトの意を的確に汲み取り、
小さく嘆息しながらも、カイは食卓の椅子を引いた。





…結局、水銀式体温計が指した体温は、39度5分だった。
基本的に、母よりも父に似たゴウは、低血圧・低体温の兆候がある体質で、普段の基礎体温が低い分、高熱が続く状態では当然体力を削られる。
食欲は何とかある状態だったが、それでも味付けの濃い物、普段と違う特異な味付けの物は食べられそうにない。
加えて、起きた時―――正確には、寝ていたときから続いていたのだろうが―――からずっと続く頭痛。
時折痛みで意識が揺らぐ以外は何とかなるが、それでも長い間、何ともない振りを続けるのは無理だった。
「…ご馳走様」
声を発するだけで鈍痛を感じる頭に思わず左手を遣りつつ、箸を置く。
そのまま立ち上がろうとして――――何の予兆もなく、突然視界が揺れた。
「ゴウっっ!!」
…頭に何かが衝突したような激しい衝撃と痛みを感じ、間髪空けずに父の叫び声が聞こえたような気がしたが、
それを確認する間もなく、ゴウの意識は闇の向こうへと呆気なく消え去った。




















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 <UP:04.11.22>