家の玄関の扉を閉め、鎖の付いた鍵を首に掛けて服の下に隠すと、鞄を背負いながらリンは駆け出した。
本日も天気は快晴。夕方まで雨が降る事も無いだろう。
…サイドに流した赤紫色の三つ編みおさげが、ぴょこぴょこと元気良く跳ねた。
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Metamorphose ― 4 +++
「お早う、マコト!…あれ、ゴウは?」
何時ものように、鞄を背負って後ろから駆けて来たリンは、正面を一人歩くマコトの横へ並んだ。
「ん?…あぁ、今日はゴウは休み」
「何で?…若しかして風邪とか?」
「いや、そうじゃなくて…あぁそっか。リンはまだ知らなかったんだっけ」
「何が?」
「ゴウのお母さんって、アイツが小さい頃からずっと海外で働いてるらしくって、その所為で普段から両親が別居状態らしくてさ…
たまに日本に戻って来ても、お母さんの仕事が忙しくて中々会えないから、時々学校休むんだ、アイツ」
「…つまり、学校休んでお母さんに会いに行くって事?」
「そーいうこと。…休日に会えたら一番良いんだろうけど、そうもいかないだろうしさ」
そう言って頭の後ろで手を組んで、ゴウが居ない所為か、目を閉じてつまらなそうにマコトは話す。
「昔、家の庭でアイツとベイバトルしてる時に言ったんだよ。『夏休みとか日曜日とか…そういう休日に会いに行けば良いじゃん』って。
そしたら、ゴウが帰った後…きっと立ち聞きしてたんだろうなぁ…父ちゃんと母ちゃんに怒られた」
「何で?」
「『自分本位で物事を話すな』って。」
「…?」
無言で首を傾げたリンを見て、マコトは少し苦笑する。
「『自分が持っている物が、他の人も持っているとは限らない』、『お前に悪気が無くても、お前の無責任な一言で
相手が気を悪くする時もあるんだ』って。………俺の父ちゃんさ、」
「ん?」
「父ちゃんの母ちゃん…つまり、俺のお婆さんに当たる人な、…父ちゃんが小さい頃に死んじゃったらしくてさ。
『母ちゃんが普段側に居ない辛さは良く判る』って…最後に小さく言われてさ」
「…そう」
横を歩くリンの瞳が揺れたことにも気付かないまま、マコトは話し続ける。
「俺ん家の両親は、昔からゴウん家のお父さんと知り合いらしいから、俺よりもよくゴウん家の事情知ってたんだろうなぁ…
だから怒られたんだと思う」
「…そっか」
「まぁ、明日はゴウも学校来るだろうし、アイツとリンとの勝負は明日までお預けだな!」
「そうだね…」
…自分が越して来る前から、半ば日常的な事だったのだろう。
いつも一緒にいるゴウが居なくて、つまらなそうな表情は時折垣間見せるものの、普段通り明るいマコトの様子に少しだけ微笑んで、
リンは空を横切る鳥の姿を見上げた。
「アポイントはもう取ってある。…11時に56階第3会議室での会議が終わるから、お前は近くのカフェで待っていろ。
…14時にはイギリスへ再度フライトするらしいから、お前と会えるとしても、長くても数十分しかないと思うが…」
「…それで良い。あそこのカフェで待ってる」
口早に説明する父の科白を遮って、ゴウは父の後方にある社内カフェの入り口を指差した。
「そうか。…俺は最上階の社長室に居るから、用が終わったらそっちに来い。IDカードは持って来たな?」
コクリと1つ頷いてIDカードを取り出して見せた息子の頭を小さく微笑んでくしゃくしゃと撫でると、カイは少し離れた場所で待機していた
数人のSPと秘書を連れ、その場から立ち去った。
…火渡エンタープライス・日本本社 第1ビル56階第2フロア。
本社の外見は、典型的な壁面一面が強化ガラス張りという高層オフィスビルだが、上から見た図は綺麗な“正三角形”。
その正三角形の中央部分を丸ごと繰り抜いて吹き抜けにし、内庭に面した壁全てを強化ガラスで覆うという特殊な構造をしている為、
建物の内側にも太陽光が降り注ぎ、
アンティークなガラス細工で作られた見事なシャンデリアの吊られた正面玄関等、普通のオフィスビルなら、照明だけの薄暗い場所にも常に光が溢れ、
天井や柱等に施された装飾細工が最も綺麗に見えるように配置されている為、まるで高級ホテルにやってきたかのような錯覚を起こす、
外も中も正に壮麗な高層オフィスビル。
此処は1年中、総社長他数千人規模の社員が常駐し、今自分が居る階も含めた、上下階数千室に及ぶオフィスフロアで勤務している。
…世界に名立たる火渡エンタープライズ本社の廊下に、白昼堂々居座っていられる子供は、自分以外にそう居ないだろう。
今居るフロアの両壁は、壁一面が強化ガラスになっている、典型的なオフィスの内装。
UVカットが入っているのか、ガラスは半透明の薄い黒色で、サングラス越しに外の風景を見ているような感覚。
誰も居なくなった静かな廊下とフロアに設置されたソファに腰掛けると、ゴウは窓越しに晴れ渡った空を見上げ、
空を横切る鳥の姿が見えなくなるまで、空を見つめていた。
「…ゴウ?」
ソファに凭れて日光を浴びながら空を見ているうちに、軽く眠ってしまっていたらしい――――頭上から控えめに呼び掛けられた声で、ゴウは目を覚ました。
窓から差し込む光に、反射的に瞼を閉じそうになるのを我慢して見上げた目前に居たのは、少しほっとしたような顔をした、数ヶ月振りに見る母の顔。
「会議…もう終わった?」
「えぇ。…待ち草臥れたかしら?」
ぶんぶんと左右に首を振ると、母は視線を合わせるようにしゃがみこんで、
「ゴウは元気?ちゃんと食べてる?」
質問に頷く息子に、一つずつ小さな質問を重ねていく。
そして約5分後、少し離れた背後で控えていた母の秘書が、母に小さく『お時間です』と耳打ちし、
「…判りました」という返事と共に、母はソファから立ち上がった。
「御免ね、ゴウ。もう時間だから…お父さんの言う事良く聞いて、良い子にしててね?」
そう言って俺を抱き寄せて軽く背中をポンポンと叩くと、母はフロアから数人のSPと先程の秘書を引き連れ、
きびきびとした足取りで、エレベータホールの方へと歩いて行ってしまった。
…これが、5年前から今に至る、母に関する“何時もの”風景。
これからもきっと、この風景は変わる事は無いのだろう。
…誰の足音もしなくなるまで、エレベータホールの方を見つめたまま、ゴウはその場から動こうとはしなかった。
そして数分後に漸くソファから立ち上がると、社長室へと上がる階のボタンを順番に押し、両親が自分用に作ってくれた特別なIDカードを使って、
社長室へと続く階へと、ゴウは姿を消した。
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<UP:04.10.17>