明確な形も、記憶も無い。
…けれど、ずっと夢を見ていた。…そんな気がする。
+++
Metamorphose ― 11 +++
暖かな“何か”が頬に触れたのを遠くに感じて、それまで深く沈み込んでいたゴウの意識は漸く閉ざされた世界から浮上し始めた。
付けられていた酸素マスクからは常に空気が送られてくるが、それに抗うように小さく息を吐き、
ゆっくりと目を開けた先に、まず薄暗い部屋の天井が見え――――その手前へと視線を動かせば、心配そうに此方を見つめる2人の姿。
最初はぼやけた様に意識も視点も定まらなかったが、名前を呼ばれ、頬に触れてくる父の手に、次第にはっきりと意識が戻ってくる。
「…大丈夫か?」
父の問いに対し、声を出そうとして――――喉が渇いていて声を出す事が出来ず、仕方なく小さく頷いてみせると、
父の後ろで心配そうに此方を見つめていたレイの表情がほっと緩んだのが見えた。
手も足も、自分の意思で動かすことは出来る。
只、両方とも力が抜けたように弱く、おまけに両腕とも点滴を挿されて居る為に、満足に動かす事は出来ない。
頭も上げる事は出来るのだが、まだ少し鈍痛が残る上に、身体もまだ倦怠感が強く残っている所為か、
何時もより重く感じてしまって――――結果、動きたくても動けないような、『動き難い』感覚を覚えてしまう。
何より、頭も身体も、酷く眠い―――…
ゴウは暫くカイの質問に頷き返していたが、そう時間が経たないうちに、再度意識を失った。
ソファーベッドの端に置いてあった鞄の中から、ミネラルウォーターのペットボトルを探していたレイは、
ベッド脇を離れて此方に戻ってきたカイの気配を感じて後ろを振り返った。
「あれ?ゴウ君は?」
「寝た。…まだそう長い間意識を保つ事は出来ないだろうな。一晩寝た位で体力は戻らない」
「そうか。…まぁ、風邪も引いてるしな」
「…で、お前は如何する?」
「そういうカイは如何するんだ?」
「この後直ぐに会社に連絡する。…今日ぐらいは側に居た方が良いだろう」
「じゃ、俺は一旦帰っても良いか?用事が終わり次第、またこっちに来るから」
「あぁ。…昨日は済まなかったな」
「いや。ゴウ君の事は俺も悪いし…」
「そうじゃない。昨日の夕食だ」
『出されたものは全部食べる』――――10年以上前、まだレイと同居していた頃から食事回数が不安定だったカイに対して、
レイが言った言葉をカイは忘れていなかった。
世界大会中、ブルックリンとの対戦で全身に傷を負った上に、傷の治療も食事も摂らずに街を彷徨い、
大会終了後は火渡エンタープライズの仕事を再度引き受けたカイの身体が、BBAの仮本部で『会う度に痩せていく』とレイは怒り出し、
それでも適当にあしらってレイから逃げていると、終いにレイは今のマンションへと料理道具一式を持ち込んで、
『カイの身体が元に戻るまで俺は出て行かないからなっ!』と、玄関で出迎えたカイに向かって、出刃包丁をビシリと突きつけて、
半分以上脅迫じみた、一方的な同居を宣言した。
最初の頃は食べるのも辛かったのだが――――今になって思い起こせば、如何やらレイは、食べやすい物を選んで作ってくれていたらしい。
『出されたものは全部食べる。…それが全ての物への最低限の礼儀だ』
精霊崇拝を暗に含んだ白虎族出らしいその言葉がレイの口癖で、実際、レイと同居するようになってからは不規則な生活が少し改善された所為か、
傷も体力も、回復するのは早かった。
「あー…まぁ昨日は仕方ないって」
『突然の事だったからな』と苦笑気味にレイは笑うと、
「昨日は食卓の上を放ったままこっちへ来たから、家に帰った序に処分しておく。
…あぁ、他に何か要る物とかないか?」
「お前が早くこっちに戻って来てくれたら、入れ替わりで俺が取りに行くから構わない」
「ん、判った」
「そろそろ7時か…電話してやらなくて良いのか?」
「あぁ!そうだ電話っ!;」
慌てて鞄の中を探り出したレイを見て小さく溜息を付くと、
「レイ」
「何だ?…っと」
「使え。…但し、病院の外でな」
レイへと携帯電話を投げて寄越したカイの視線がゴウの方を向いているのを見て、
「有難う」
レイは小さく微笑うと、病室を出て行った。
「よし、今日はまだ出て来てないみたいだなっ」
鞄もちゃんと背負わないうちに木ノ宮家の門を飛び出し、マコトは2階建て住宅の林立する中にぽつんと聳え立つ、
ゴウの住むマンションに向かって走り出した。
マンションの入り口で、いつものように部屋のナンバーを押してコールする――――が、誰もコールに出ない。
ゴウ本人が出ないにしても、その父親が出てもおかしくはないのに。
「おっかしいな〜…先に行ったのかな?」
2、3度コールして、それでも誰も出ない事に諦めて、マコトは仕方なく学校へと足を向けた。
…結局、その日は何時まで待っても、ゴウが教室に現れることはなかった。
←BACK NEXT→
<UP:05.2.10>