見た目がかなりグロテスクな「飛頭蛮(ひとうばん)」を、今すぐ踵を返してダッシュで逃げ出したい衝動を堪えながら、
降神させていたタンカムイとブリュネで、さくっと……
 ソレに出来るだけ近付かないように。
 ……しかも。
 視界にさえ極力納めないよう細心の注意を払って、手加減も容赦も一切与えない勢いで跡形もなく、
断末魔の悲鳴を上げる隙すら与えない一瞬で「調伏」して。
 何時も以上に。
 色んな意味で無駄に張り詰めまくっていた「糸」を、ほっ…と、深すぎる安堵を込めて吐き出した後。
 否応なく感じて仕方ない、鬼のような「精神的疲労」から目をそらしたくて。
 誤魔化すように、ぎこちない視線を泳がせた先。

 周囲への被害を最小限に留める目的で。
 ……しかも。
 人里から離れていたのを良いことに。
 普段ならみんなが動きやすい程度で納める所を、今回に限ってはかなり広範囲に景気良く結界を張り巡らせておいたのだが。

 常人には認めることも叶わない、淡く儚い虹彩でもって確かに存在している「壁」越しに見えたのは。
 花屋の店頭に掲げられていた可愛らしい二等身の白ウサギと、「父の日」と、シンプルながら目を惹く色彩で大きくプリントされたポスターで…………



「…………あぁぁぁっっ!!!」



 不思議そうに。
 展開していた「壁」を、「要」として使っていた闘神符を回収することで無に帰していた式神達が、めいめいに首を傾げながら、
心配そうに見つめてくるのにも気付かず。
 叫び声を上げた本人たるヤクモは、

「どうしよう……」

 ……と、小さく呟いてから。
 柏手を打つようにして重ね合わせた手を、ひどく緩慢な動きで震える唇まで持って行き、僅かに瞠目させたままの双眸を忙しく瞬かせた。





      「百の言葉より 一の思いを」 前編





 思い立ったが吉日……とは、誰の台詞だっただろう。
 そんな瑣末事を脳裏に浮かべる余裕すら見出せないまま、彼にしては非常に「珍しい」様子で、慌ただしく授業中のミカヅチ学園の廊下を駆け抜けて行き。
 相変わらず膨大な「気」を湛えている所為もあって。
 廊下の窓際の生徒でも、特に勘の良い「闘神巫女候補」の少女などは、ひどく不思議そうな視線を送られていたのだが。
 短距離選手も舌を巻くだろうスピードで遠ざかっていく背中は、そんな視線をモノともしないで、一目散に「目的地」たるモンジュの研究室へ、
一心不乱に足を運ぶばかり。

 こんな瞬間だけは、学園一帯に張られた「結界」に、憎々しげな歯噛みや舌打ちを零したくなる。
 天流宗家たるヨウメイを始め。
 各流派の宗家や、古くから続く闘神士や巫女の「名家」の当主が名を連ねる協会幹部から、何度目かすら定かでない直接の要請を受け、
半永久的に継続されるであろう、ウツホと一緒に考え出した特殊な「壁」を張り巡らせたのは、他でもない自分自身であるのを、サックリ棚に押し上げて。

 ヤクモは、疲れの所為でもつれそうになる足に無言の叱咤を呟きながら、耳の奥で早なる鼓動が痛みさえ伴って響くのにも構わず、目前に現れた研究室の扉を。
 モンジュが居ることの確認すらしないまま、勢いよく開け放った。



「父さんっ!!」





 入って直ぐに目がいくのは、古文書や専門書が所狭しと詰め込まれた本棚と、見るからに座り心地が良さそうなソファー。
 そして、運良く南向きだった窓の直ぐ下には、生徒に提出させたのだろうレポートやらに埋め尽くされ掛かっているデスクがあって、
この部屋の主が「教職」にあるのだと静かに主張している。
 本棚の直ぐ傍には、コーヒーメーカーが上に鎮座している細身の棚が置かれ、その中には何故か、自分の契約式神や生徒達の「お茶請け」の為にと、
事あるごとに買い足しているらしいお菓子が、時妙な豪華さとラインナップでもって隠されている。

 昨日のお昼頃。
 何時もの様に任務帰りに訪れた時には、棚の上で煮詰まったコーヒーを温めてばかり居るコーヒーメーカーを隠すように、
うずたかく積まれていたお菓子の小山が、その日の晩……正確には、日付が変わる直前の夜中だが……には「棚に収まる程度」に減っていた辺りから、
生徒達があの後「団体」で押し寄せたか……
 或いは。
 密かな「甘党」であるモンジュが、テストを作る合間に食べてしまったかのどちらかだろう。



「何かあったのか?ヤクモ」



 何時からだったか……
 「気力」が有り余って困るからと、大した用事もないのに式神を降神させては、その温もりを直に感じながら、
度重なる任務で疲れ切った体を睡魔に委ねている姿を、この研究室のソファーでよく見掛けていたから。

 活動的に動き回ってる姿を見るのは、久し振りだよなぁ……

 ……なんて。
 そのまま口にしたら確実に怒られるか、勢いのまま盛大に拗ねられそうなことを胸中に零して。
 モンジュは、校門から全力疾走なんて無茶をした所為で、忙しない呼吸と鼓動に阻まれて二の句が続けられないらしいヤクモに、柔らかな笑顔を向けた。

 本当に急いでる時は、学園に張ってある「壁」なぞモノともせず。
 自分が居る研究室に直接、伏魔殿を経由させた「扉」を出現させるなんて無茶を、貌色ひとつ変えず、しかも事も無げにしてのけるに決っているのだから。

 そう言った意味合いも言外に含ませて……

 ヤクモの呼吸が収まるのを待つ半分。
 今まで読み耽ってしまっていた古文書を本棚に仕舞い、後ろ手に扉を閉める姿を横目で確認しながら、
1時間ほど前にタイミング良く入れ直したばかりのコーヒーを紙コップに注いでやり、向かい合う形で部屋の中央に鎮座しているソファーの間。
 木製の小さなテーブルにフレッシュと一緒に置いて、モンジュはソファーにゆっくりとした動作で腰掛けた。



「…………取り敢えず、座ったらどうだ?ヤクモ」



 ……ただでさえ。
 半ば「嫌がらせ」の様に舞い込んでくる膨大な任務を、「仕方ない」の苦笑ひとつで、大した文句も言わずに片っ端からこなしていき、
横になったと同時、泥のように眠りこけるくらいに疲れ切っているのに。
 小学校から大学院まで、エスカレーター式で進級可能な私学……と。
 敢えて「闘神士、及び闘神巫女育成を目的に設立した学校」という事実を一部に伏せたまま、「表向き」平凡な私学として通っているだけあって、
相当な敷地面積を誇るミカヅチ学園を駆け抜けるなんて無茶をしてのけるのだから………

 無茶ばかりするなんて、まったく………誰に似たのだろう。

 ……などと。
 ツッコミ役を自然買って出ていたアカツキことコゲンタが居ないのを良いことに、モンジュはそんな「天然」な一言を、
砂糖を沢山放り込んだコーヒーと一緒に飲み込んでいた。



「…………ありがとう、父さん」



 向かい合う位置で腰を下ろし、モンジュが机に置いてくれたコーヒーを、ほぼ一息で飲み干してから。
 喋るのさえままならないほど上がっていた息を、何度かの深呼吸の後でようやっと繕えたらしいヤクモが、うっすらと、苦笑めいた微笑を返しながら言った。

 どうでも良いけど、砂糖入れすぎ。

 ……と。
 紆余曲折を得て「契約解除」に至ってしまった守護式神に鍛えられたツッコミにて、すかさず釘を刺すのも忘れずに。



「……それで、何であんなに慌ててたんだ?ヤクモ」



 妙なところだけ、しっかりアカツキに似て……と。

 ヤクモと「経緯」は違えど、嘗て契約を結んでいた式神と「別れた」経験のあるモンジュは、自然と引きつってしまう左の頬を隠しもしないで、
少しばかり強張った笑顔を歪めさせた。
 他愛ない軽口が叩ける程度には、精神的に「安定」を取り戻しているらしいヤクモの様子に。
 ……今更ながら。
 小さく、けれども深い安堵の息を内心で静かに吐き出すのを、何故か躍起になってひた隠す代わりとして。



「だって、早くしないとイヅナさんが夕飯の支度始めちゃうだろ?」



 そんなモンジュの思いを知ってか、知らずか。

 モンジュやイヅナ相手でしか滅多に見せない、「年相応」な笑顔をふわりと輝かせて。
 はにかむ表情のまま。
 鋭さだけを削ぎ落とした琥珀の双眸を優しく細め、幼さの残る仕草で首を傾げてみせるのだった。