太刀花家を訪れて、早2時間。
「…じゃ、俺はもう帰るよ」
リクに請われるがままに、軽く闘神符についての講義を繰り広げ、一段落したところでそう言って席を立ったヤクモを見上げ、
「え?もう帰るんですか?」
きょとんとした表情で――一拍後には眉を顰め、何処か残念そうな表情を表しながら――リクが返事を返す。
「伏魔殿に行くって事以外は何も言ってきてないからね。…これ以上遅くなると、流石に怒られる」
さらりと『怒られる』と言いながらも、リクを見下ろすその顔は相変わらず微笑ったままで。
「ヤクモ。…全く“怒られる”って感じの顔してないぞ」
リクの頭の上に両手を乗せながら、霊体のコゲンタは呆れた声を出した。
「…そうか?」
「まぁ、あの闘神巫女は兎も角、モンジュの事だから、『ちょっと遅くなった』位じゃ無茶苦茶怒りはしないんだろうけどな…」
『でも、お前は普段から長時間伏魔殿に潜り過ぎだ!』と、コゲンタはしっかり釘を刺した。
…つい先日、派手に気力を消費し過ぎて、伏魔殿から帰還した途端ヤクモが倒れたという話は、しっかり幼い闘神巫女から自分にも伝わっている。
昔から無茶が過ぎるところはあったが……未だにその性質は変わっていないらしい。
「そんなに長時間潜ってるつもりはないよ?」
心外だとでも言いたげな表情で小さく首を傾げて答えるヤクモに、少々苛立ちを覚えながらも、
「嘘付け。並の闘神士なら半日もあそこに居られないだろうが。
…この間ぶっ倒れたばかりなんだから、いい加減無理するのは止めろ」
ヤクモの顔前にビシリと指を突き付けて諭そうとするものの、
「判った判った。一応覚えとくよ」
「『一応』ってのは何だ『一応』ってのは!!」
「あーはいはい。コゲンタと言い争ってたら益々帰りが遅くなるだろ?」
『イヅナさんに夕食無しにされたら如何してくれるんだ』等と呟きつつ、ヤクモは左手をヒラヒラと振ってコゲンタの抗議を受け流し、
『扉』と言う文字の浮かび上がった1枚の闘神符を右手に掲げた。
『キ゜ン』という甲高い音を立てて現れた障子をヤクモは後ろ手に開き、
リクとコゲンタがヤクモの背後、障子の向こうに伏魔殿の蒼い蒼穹の空を認めたのと、
「…じゃ、何れまた…」
後ろ手にヤクモが障子の向こうへと歩を進めたのは、ほぼ同時だった。
「―――…え?」
「ヤクモ!」
「ヤクモさんっ!;」
ヤクモの目の前で、目を見開き、焦った表情を浮かべたリクとコゲンタが、障子の向こう――伏魔殿の空へと投げ出される形で
体勢を崩したヤクモの手を掴まえようと駆け寄る前に、ヤクモの姿は障子の向こうへと『落ちた』。
そして、慌てて彼の異世界と現世と繋ぐ障子に駆け寄ったリクの鼻先で、障子が『タンッ!』という小気味のいい音を立てて閉まり、そのまま消え失せた。
…ヤクモが開いたのは、伏魔殿の何れかのフィールドに存在する空に浮かぶ『扉』の1つだったらしい。
いつもなら、そんな高所に存在する障子を召喚するようなミスもしない上に、後ろ手に障子を潜る…なんて事もしないのだろうが。
「…アイツ、相当疲れてんじゃないのか…?」
掲げた手も虚しく宙を掻き、目の前で掻き消えたヤクモが、つい先程まで存在していた場所を凝視しながら、
コゲンタは何処か疲れたような―――呆れ返ったような声を出した。
「…っ、でもコゲンタ!ヤクモさんが伏魔殿へ落ちたんだよ!?早く助けに」
「行かなくても大丈夫だろ」
「何で?!」
「今のアイツならきっと普通に空も飛ぶぞ?闘神符を殆ど使いこなしてるからな」
『それに、別に気を失って落ちた訳でもないしな』と、如何でも良さ気に呟きながらも、
流石に目の前で、然も尊敬している人が突発的に起こした事故を目撃して、些か混乱気味のリクを宥めるようにコゲンタは説明を続ける。
「昔もあぁいう事があったんだよ。闘神巫女の言う事を最後まで聞かずに独りで暴走して、挙句の果てに見事に川の中に落ちたからな」
『やっぱり背丈以外変わってねぇ…』と呟くコゲンタの視線は、何かを思い出すように何処か遠い目をしていたが、
「…そう言う割には、凄く嬉しそうな表情してるけど?コゲンタ」
「んな…っ?!;」
…表情に出ているとまでは気付いていなかったのだろう。
途端に尻尾を逆立て、顔を赤くして言葉に詰まる己の式神を見て、リクは思わず吹き出した。
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