午前4時。
「寒…」
夏とは言え、朝の京都は気温が下がっていて少し肌寒い。
昨晩、どんな待っても帰って来なかったヤクモとナナの事が心配で寝付きが悪かった上に、小さな物音で直ぐに目を覚ましてばかりいた所為か、
正直、あまり睡眠も取れていなければ、前日の疲労も取れていないのだが――――
『これ以上布団の中に居ても眠れない』『気分転換も兼ねて、早いうちから境内を掃除しよう』と肚を括って、思い切って布団を畳んで起床したナズナは、
そっと部屋を出て、裏庭に面した廊下を歩いていた。
いつもより早く起きた所為か、慣れない肌寒さが少しだけ辛いが、直ぐにこの寒さが恋しくなるほど気温は上がってくる事だろう。
序にヤクモの部屋をそっと覗いて見たが、部屋の主の姿は矢張り何処にも居ない。
矢張り帰って来なかったのだと肩を落とし、音を立てないように気をつけながらそっと襖を閉じる。
つい先日も、何日も帰って来なかったかと思ったら、早朝によろめきながら帰宅して…疲労から出た熱だって、やっと下がったばかりだったのだ。
熱と言えば、ナナの熱はまだ下がりきっていなかった筈だし、はっきり言ってそんな体調で闘神戦に向かうなど、かなり危険な行為なのだ。
『言い出したら、どんなに引き止めようと聞き入れない』という辺りがまるでそっくりな2人を思って、物思いに耽りながら箒を掴み、
境内に足を踏み入れたナズナは、そのまま掃き掃除を始めようとして――――視界の端に映った人影に、一瞬目を見開いた。
「…ぇ?」
『あれは…マサオミはんやないの?』
新太白神社の階段から境内にかけて、上半身を投げ出す形で突っ伏すように倒れている青年は、確かによく見知った人の姿で。
「何故こんなところで…!」
手にしていた箒をその場に投げ捨て、大慌てで駆け寄る。
駆け寄った時に視界に入った階段の下の方には、2人の人影―――ヤクモとナナ―――がマサオミと同じように倒れ伏している。
「ヤクモ様!ナナ様!」
悲鳴じみた声で名を叫んで、まろぶように階段を駆け下りる。
名を呼んでも反応が無いところから、如何やら両者揃って意識が無いのだろう。
真っ青な顔でぐったりと階段に横たわる2人に手を伸ばしたが、
『ナズナはん、御二人に触ったらあきまへん!』
半透明の霊体姿で両腕を広げ、ヤクモ達とナズナの間に立ち塞がったのはホリン。
「ホリン?!」
『あきまへん!今のナズナはんが御二人に触ったら、ナズナはんにまで障りがおきます!』
彼女にしては珍しく、厳しい口調で説き伏せるホリンに、
「障り?一体如何言う…」
『…今のヤクモ達は祟られている。不用意に触らぬ方が良い』
そう言って姿を現したのは、滅多に霊体では姿を見せない『雷火のタカマル』。
「祟られたって…一体何が…」
『ナズナはん、話は後や!』
思わず問い掛けたナズナの問いを遮って、ホリンが叫ぶ。
「は、早くモンジュ様とイヅナ様を…」
あまりの出来事に、もう何が何なのか思考が追い付かず、絡まった思考のまま、ナズナはモンジュとイヅナを呼び起こすべく再び階段を駆け上がっていく。
「…俺の事も忘れないでくれよな〜…」
ナズナの足音を聞いて微かに身動ぎしたマサオミは、ぐったりと横たわったまま、社の方へと駆けて行く小さな後姿に向かってぼそりと呟いた。
数分後。
「これは…!」
3人の姿を見て絶句したイヅナの側を通って階段を駆け下りたモンジュは、瘴気が3人の身体を覆うように薄く纏わり付いているのを感じて、
「…全員何かに祟られたな」
ヤクモの側で足を止め、その場に膝を付いて目を細める。
「イヅナとナズナは3人分の床の準備と医者に電話を。
…この子達は俺が運ぶ」
「「判りました」」
2人の巫女は駆け足で吉川家の方へと戻って行く。
その足音を聞きながら、モンジュは懐から闘神符を引き抜くと、自分とイヅナ達に障りが起きないように、ヤクモ達の周りに結界を展開する。
祟られたのであれば、早いうちに祓ってやらねば、益々ヤクモ達の容態は悪化するばかりだろう。
見下ろした2人の顔は同じくらい顔色が悪いが、その身に纏わり付く瘴気は、ヤクモよりもナナの方が薄い。
併し、ナナの方がヤクモよりも体調は回復していなかった上に、今の彼女は吉川家の客人である。
万一の事があってはならないと、まずは彼女を先に抱き上げて社脇の吉川家へと踵を返す。
何とか自力で起き上がり、階段脇の鳥居に背を預けて地面に座り込んでいたマサオミに、
「君は自分で歩けるかね?」
「…何とか」
「そうか。では此方へおいで。その格好では帰るに帰れないだろう?」
「…………お世話になります」
一晩中山の中を駆けずり回って、全身に埃を被った自らの服を一瞥したマサオミは、小さく『…確かに』と呟き、そのままモンジュに頭を下げる。
「じゃあ、俺は階段下で伸びてるアイツを拾い上げる努力をしてから行きます。
…そこの彼女に触ったら、天流から恨みを買いそうな話を聞いたんで」
『それに、アイツが一晩中必死で庇ってたその娘を、最後の最後で俺が連れてったら、アイツから後でシメられますから』と、首を竦めて言うマサオミにモンジュは笑うと、
「では、先に連れて行って来るよ。
この娘は、俺にとっても実の娘みたいな存在だからね」
「それは如何言う…いえ、俺が聞くべき事じゃないですね」
「いいや。構わないよ。
…この娘は、俺の門下にいた闘神士の娘で、この娘の父親は、俺の所為で死んだからな」
――――倒れ伏すその姿を見つけたその時に上がった甲高い悲鳴。
思わず振り向いたその先に立っていた少女の悲痛に満ちた表情を忘れる事は出来ない。
ナナもヤクモも、そしてマリも、あの時から前・陰陽大戦への道を歩むべく、運命を捻じ曲げられた――――…
「…そうですか」
『余計な事を思い出させてしまいました』と再び頭を下げたマサオミに、モンジュは苦笑すると、玄関の扉を開けて此方を覗き見たイヅナの元へと歩いて行く。
「…さて」
モンジュの後姿を見送った後、マサオミはやおら空を見上げると、
「意識戻ってるんなら、自分で歩いて上がって来いよ、吉川」
「…気付いてたか」
ちっと舌打ちする声が聞こえて、ヤクモはゆっくりと身を起こして階段に腰掛ける。
「どうせあの方も気付いてるぞ?お前の親父さんなんだし」
「…まぁ、そうだろうな」
『…ヤクモ、大丈夫か?』
滅多に見せない霊体姿で独り現れたタカマルの姿にヤクモが一瞬瞠目する。
「タカマル?…あぁ、大丈夫…何とか、な」
苦笑しつつ、腰に手を伸ばしてドライブホルダーに収めていた零神操機を手に取って見れば、
タカマル以外の他の式神達は、昨晩からの闘神戦の疲労を受けて休眠状態にあるらしく、零神操機から感じる式神達の気配はかなり弱い。
『今暫くは、他の式神は喚び出さぬ方が良いだろう。
…特に白虎は無理をし過ぎだ』
『昔から無茶をする奴だ』と呟くタカマルにヤクモは苦笑すると、『そうだな』と相槌を打ってドライブホルダーに零神操機を戻し、ゆっくりとよろめきながらも立ち上がる。
見上げた空は数時間前の闇夜の影も無く、対照的に夏空特有の蒼さを増し、背後の境内からは、パタパタと駆ける小さな足音が聞こえて来る。
「ヤクモ様!」
よく通る高い声が自分の元へと近付くのを聞いて、ヤクモは苦笑顔で振り返る。
「ヤクモ様!お怪我は?熱は!?」
急ぎ階段を駆け下りてきたが、伸ばした手はモンジュによって先に施された闘神符の結界に遮られ、ヤクモに触れる事は適わず、
目前に透明な壁が何時の間にか展開している事に瞠目して狼狽するナズナの姿に、
「いや、大丈夫だから。な?」
障壁が築かれているとは言え、自分に向かって伸ばされる小さな手に障りが起きないように、少し身を引いて狼狽しているナズナを宥めるヤクモの声に、
「…おいおい、あれの何処が大丈夫なんだよ」
『って言うか、俺の事完全無視かよ』と拗ねたように独り呟くマサオミの姿に、
『マサオミ君は別に拗ねなくても良いんじゃないの?』
極神操機から顔を出したキバチヨは、疲労の色濃く残る顔で苦笑しながら、それでも飄々と容赦の無い突っ込みを入れたのだった。
<UP:05.11.30/Re−UP:06.5.17>