厚い雲にその姿を隠された月の光は一向に降り注ぐ事無く、結界の綻びた境内に土埃が舞い上がった。

 「――――吉川!」

名を叫んだ瞬間、聞こえたのは、符で創られた壁が壊れた甲高い破砕音。
鳥居の上から落ちてきたモノ――――『おとろし』と呼ばれる妖怪から距離を取りつつ、マサオミは極神操機を右手に持ったまま、土埃の向こうに必死で目を凝らした。

 「っつ…」
 「吉川!」

満足な回避距離は取れなかったらしいが、取り合えず両者揃って押し潰される事だけは回避したらしいヤクモが、
『おとろし』から少し離れた場所で、ナナを腕で庇ったまま座り込んでいるのを土埃の向こうに見つけ、
マサオミは慌てて駆け寄りながら、服のポケットに隠していた、今はもう枚数の少なくなった闘神符を構え、自分とヤクモ達の周りに障壁符を展開する。

 「大丈夫か?!」
 「何とか…な。…でも、北条が…」

先刻の無理な回避運動と衝撃で、意地で保っていたらしい意識が途切れてしまったナナはぐったりとして目を開かない。

 「…障壁符を強化するか?」

森の中は瘴気で溢れ返っている。
『この中を病人が通るのはあまりにも危険過ぎる』と言外に訴えるマサオミの意見に、ヤクモは首を振る。

 「夜明けまで障壁符を張って留まるのは簡単だ。…でも、それだと北条が保たない」
 「だが、」
 「俺は北条を連れて帰らなきゃいけないんだよ。じゃないと…」
 「じゃないと?」
 「また闘神符で爆殺されるっ…!」

急に態度が豹変したかと思えば、何とも物騒な科白を吐いて、ナナを抱えたまま顔を真っ青にしてガタガタと震え出したヤクモの姿に、

 「ば、爆殺…?」

マサオミがぎょっと引き攣った表情を浮かべる。

 「無事に北条を連れ帰らないと、まずイヅナさんに縊り殺されるっ…!
でもって、ナズナには泣かれるし、父さんからも…っ…!」

新太白神社をナナと揃って出た昨日の夕方、出掛けを見送ったイヅナが、ヤクモの耳元でそれはもう綺麗ににっこり微笑って呟いた
『ナナ様を援けて上げて下さいね』の一言が脳内にフラッシュバックしたらしく、この世の地獄を見たような蒼白な顔色で絶望の言葉を呟くヤクモの姿は、
本人には悪いが全く『天流最強の闘神士』には見えない。
時代を超え、流派を越え、千年前から闘神の書物にその名を刻まれている、恐らく『向かう処敵なし』の『生きる伝説』のクセに、身内の人間の方が更に『最恐』らしい。
『腕の中で庇っている本人から怒られることよりも、身内に怒られる事を只管怖れているとは…』と、引き攣った表情を浮かべて、
笑うに笑えない状態に陥っているマサオミの正面に、

 『あ〜……ヤクモが今庇ってるソイツには姉が居てな…その姉がまた妹のソイツを凄く大事にして可愛がってるんだよ。
…だから、ヤクモがソイツを無事連れ帰らなきゃ、ヤクモはまたあの姉に報復として爆殺される可能性があるって訳』

零神操機から、ヤクモと同じく、只でさえ青白い顔を更に青白くしながら現れたのは『白虎のコゲンタ』。
補足説明は有難いのだが、肝心な部分が抜けている。

 「…ま、まぁ、大体の理由は判ったけど…“また”ってのは如何言う意味だ?過去にもあったのか?」
 『あぁ…前・陰陽大戦の時に、俺とヤクモとソイツが、その姉の放った爆砕符で殺されかけた事がある…
ヤクモの機転のお蔭で九死に一生を得たから、今こうやって生きてられるけど…正直、かなり危なかったんだよな……』

『一瞬でも逃げるのが遅れてたら確実に死んでたな、全員』と、物凄く疲れた表情で淡々と話す白虎の式神の周りに陰惨な空気が漂い始めたのを感じて、
マサオミの顔が益々引き攣る。
式に下っているとは言え、式神も神には違いない。その神の周りを陰惨な空気が纏うとは、只事ではない。

 「つまり…その、今回の場合も、万が一の事があれば……爆砕符の餌食には、…俺も含まれるのか?」
 『ったり前だろ。男2人と式神が8体も居て護りきれなかったら…』

『確実に名落宮逝きだな、全員』と只管遠い目をする白虎の言葉に、

 「…やっぱり?」

『一応俺天流じゃなくて神流なんだけど。こいつらとは親族でもないし、流派も違うんだけど』と、
地面に座り込んでのの字を描きながら現実逃避を始めたマサオミの姿を見て、極神操機から現れたキバチヨは思わず深い溜息を付いた。
男2人が深夜の境内で地面に座り込んで懊悩していると言う図は、傍目から見ていてもかなり変だ。
さてどうしたものかと瞳を閉じたその瞬間、新たに上がった妖気を感じて、キバチヨははっと鳥居の方向を振り返った。

 『マサオミ君!何か来る!!』

キバチヨが警告を発する横で煩悶していたマサオミとヤクモは、キバチヨの警告に瞬時に態度を切り替えて立ち上がる。

 「!」
 「…何だ?あれは」

ヤクモの訝しむ声の先、彼らが見つめる闇の中にぼんやりと浮かぶのは、青白い鬼火を纏った“何か”。
全貌はまだ見えないが、ガラガラと山道を何かが転がる“異音”は、鬼火と共に確実に彼らへと近付いてくる。
…併し、その何処か聞き覚えのある異音に、マサオミは視線を外さないまま首を傾げる。

 「牛車の輪の音に似てるような…」
 「…何か言ったか?」
 「いや、何も」

異音の響いてくる方向に視線を外さないまま、意識を失ったままのナナを背に負ぶい直していたヤクモが、マサオミの独り言を聞いて首を傾げたその時、
月を隠していた雲が一時的に晴れ、薄明るい月の光が境内に戻る。
薄暗いとは言え、明るさを取り戻した鳥居の向こうから、ガラガラと音を立てて、彼らへと一直線に突っ込むように、勢い良く“何か”がやって来る。

 『あれは…“片輪車”でおじゃるよ!!』

零神操機から現れたのは『榎のサネマロ』。

 『マサオミ!』
 『避けろヤクモ!!』
 「…っ!」

キバチヨとコゲンタの悲鳴じみた警告が上がる中、鳥居を潜って全貌を現した『片輪車』は鬼火を纏い、3人の居た場所に向かって、
轅(ながえ)を上げたまま一直線に勢い良く突っ込んだ。












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