対女郎蜘蛛の闘神戦が終了したのは、日付の変わった時刻――――世間一般では、これを『真夜中』という――――だった。




 「今までの人生の中で一番最悪な夜だわ…
これだから夜は嫌いよ…」

最早泣き言にも聞こえるナナの科白に、彼女を挟んでぐったりと地面に座り込み、夜空を仰いでいたヤクモとマサオミは、無言で頷く事で同意を示した。
今の自分達は、『疲労困憊』の四字が誰よりも似合う闘神士と化している。思考して口を開く力すら、まともに残っていない。
契約式神達も疲れ切ってしまったのか、誰一人として神操機や闘神機から姿を現さない。
…無理もない、と、ヤクモはぼんやりとした頭でそう思う。

今回のメインイベントだった『女郎蜘蛛の伏魔殿送り』自体は、日付が変わる頃には既に完了していた。
…最も、風に乗って彼方此方へと逃げ回る女郎蜘蛛達を、一箇所の包囲陣の中に追い込んでおく事など到底出来ず、
ヤクモは気力の殆どを、闘神符を媒介にして伏魔殿と現世を直結させる『扉』を幾度も作り出す為に使い果たし、
ナナは、体調不良から来る集中力の欠如すら押し殺すという無茶を押し通して、ヤクモが開いた伏魔殿への障子扉に、
闘神符で創り上げた『檻』に封じ込めた妖怪達を送り込み、
マサオミはここ数日間、闘神符に追われる生活で殆ど休憩を取っていない身体で、妖怪で溢れ返った山の中を一晩中駆け回って、妖怪達を檻に追い込んだ。
…併し、次から次へと水が湧く様に現れる妖怪達が尽きる事は無く、3人は休む間もなく印を切って式神を使役し、闘神符を飛ばし続けざるを得なくなった。

自分達がやって来た京都の街がどちらの方向にあるのか、自分達が山の中をどう走り回り、どういう道筋を辿って此処までやって来たのか、
それすらも判らなくなった頃。
闘神戦が漸く終わりを告げたのは、日付が変わり、深夜1時半を軽く回っていた深夜だった。





3人が座り込んでいるのは、放棄されて久しい、名すら判らない荒廃した山奥の神社の、鳥居に程近い境内。
森の中と違って天が開けている境内には、欠け始めているとは言え、淡く穏やかな月の光がぼんやりと辺りを照らしている。

 「あ〜あ…これじゃ夜の間しか歩けないわね…」

ふと、自分の服へと視線を落としたナナは、そのあまりの状態に思わず深い溜息を零す。
元は薄紅色のTシャツに、ジーンズ布地の濃青色のスカートなのだが…今や、頭から十年分の埃でも被ったかのような無残な色に変色してしまっている。
闇夜に包まれた森の中は、当然足場も悪い。
躓いて転びかけた時に汚れたのか、服の彼方此方に乾いた泥土や草木の枝葉がくっ付いている。
服でこの状態なら、髪にも沢山絡み付いているのだろう。
夏という季節の所為でむき出しだった左腕や足は、闘神戦と森の中を駆け回っていた時に付いた細かな傷だらけで、
痛みは感じないものの、中には血が滲んでいる傷もある。
…最早、服が破れなかっただけでも幸いだったとしか言いようが無い。

――――例えるなら、今の自分はまるで“何か”に襲われて、命からがら山の中を逃げ回ったような風体。
今が日中で、更に自分と同じように全身汚れてぐったりしている両隣の男2人を連れて下山しようものなら、ほぼ確実に2人は『勘違い』されるだろう。
…何にせよ、女の子の格好とは到底思えない―――…と言うより、思いたくない自分の状態に、流石に意識が遠くなる。

 「――…っ」

…一瞬だけ気を抜いた途端、容赦なくナナを襲った眩暈が、必死で抑えていた『引き金』を引いた。
もう何時間も前から必死になって誤魔化していた自分の身体が、自身の不調に気付く。
此処は、都の築かれていた平安の時代から未だに機能している陰陽道の結界の張られた古都の外れ。
結界が機能している場所でも、その結界の力が届く場所でもない。
万一この場で倒れれば、最早意識は戻らないと、頭の何処かで警鐘が鳴る。

 「…北条?」

目聡く此方の様子に気付いたヤクモの声に、ナナは思わず心の中で舌打ちをする。
もう少し余裕があれば、本当に舌打ちした可能性もあったが、残念ながらそんな余裕は微塵も無い。
今にも安定を欠いて倒れそうな身体と意識を、掌に爪が食い込み皮膚を突き破りそうになるほど強く握り締めることで、無理矢理繋ぎ止める。
止まらない眩暈は、目をきつく瞑ってやり過ごしていた――――故に、額に伸ばされたその手に気付くのが遅れた。

 「北条?!熱が…!」
 「…っ触らないで!」

反射的に身を引き、自身の唐突な動きに上半身の安定を欠いて、よろめいた身体を支える為に地面に手を付くナナの様子に、
ヤクモの伸ばされた手が虚しく宙を彷徨う。
矜持の高い彼女が、人に借りを作る事を頑として受け入れない主義である事はヤクモも知っている。
…だが、そんな事を言っていられる状態ではないと、一瞬触れただけでも指先に残った『高い熱』が訴える。
闘神戦が長引けば長引くほど、最初から体調の思わしくない彼女の容態が悪化する事など、最初から判っていた事だ。
夜の京都は、昼間の猛暑と違って、夕刻から温度が急激に下がる。山の中なら、尚更温度は下がりやすい。
病状が明確に現れ出した以上、こうなったら一刻も早く麓へと降りなければならない。

逡巡し、一拍の後に意を決して口を開きかけたヤクモの動きがふと止まる。
それと同時に、森の中に再び妖気が漂い始める――――微かに、併し濃厚なコールタールにも似た闇が、境内に沿って張られていたらしい、
今は綻びた結界の真側まで押し寄せて来ている。
――――此処までこの“濃厚な闇”が接近する事に気付くのが遅れたのは、恐らく自身の疲労の所為。
心の中で舌打ちして、『闇』に気付かれないように、そうっと懐に手を差し入れ、左手の内に闘神符を一枚隠し持つ。

 「…大神」
 「…なんだ?」
 「今、何時か判るか?」
 「…午前2時前」

短い質問だったが、それだけでヤクモの考えている事が判ったらしく、マサオミが見上げた空に浮かぶ欠けた月は、その淡い光を遮る厚い雲に覆われようとしている。

 『…ヤクモ』

疲れ切っているだろうに、零神操機から警告するように霊体の姿を見せたのは『白虎のコゲンタ』。

 「あぁ、判ってる。少し、此処に長居し過ぎた。
…大神、動けるか?」
 「動かなきゃ、俺達全員此処でお陀仏だろ…っ!」

言葉を発した瞬間、マサオミはその場から前方へと飛び跳ね転がり、ヤクモは頭上へ闘神符を放ち、半透明の『壁』を創り上げる。
気力を消費し過ぎている今の自分には、満足な効果を得られるほどの符力を込める事は叶わない。
…だから、『壁』が機能するのは、恐らく保って3秒。
その間に、もう恐らく自力で動く事は出来ないであろう北条を連れて、この神社から少しでも『離れ』なければならない。

最初の2秒で、隣に力なく座り込み、殆ど自らの意思で動く事が適わなくなり始めた北条を問答無用で抱き上げる。
踵を返して地を蹴り、その場を離れるのに、最後の1秒は如何しても必要だった。



ヤクモがナナを連れて踵を返したその瞬間、マサオミの左手首に付けられていた腕時計が、一秒の狂いも無く『午前2時』を指す。
――――江戸時代には『丑三つ時』と呼ばれていた時刻が、妖(あやかし)の溢れ返った山に訪れる。

 「――――吉川!」

マサオミの鋭い警告がヤクモの耳に届く。
それと同時に、古びた神社の鳥居の上、ヤクモとナナの頭上から『落ちて』きた“何か”は、大きな音を立てて地面に落下し、
丑三つ時が訪れると同時に月の光が翳り、只でさえ暗くなった境内から一切の光を奪うように、土煙を舞い上がらせた。












 <UP:05.10.30/Re−UP:06.4.8>