山から出れば、まだ夕焼け空は幾分か明るいのだろうが、木の枝で覆い隠された森の中は、夜の帳が落ちた後の暗闇にも等しい闇が留まっていた。

 「ナナ!」
 「くっ…!」

結界の入り口に着物の袖から白く細長い手が伸び出た『小袖の手』は、ひらひらと宙を舞いながら、ナナに向かって白く細い手を伸ばす。

 「ナナっ!」

同じように蛇帯に捕らえられたコマチが叫ぶものの、両手を拘束されているナナには、式神を使役する為の印を切ることが出来ない。
迫るその白い手から逃れようにも、蛇帯に捕らえられた身体は、ナナの思い通りに動かない。
ゆっくりと、何処か優雅ささえ感じる挙動で、その不自然なまでに白い手がナナの顔に触れようとしたその瞬間、
結界の入り口で『キ゜ン』という甲高い闘神符の音が聞こえ、

 「北条っ…!」

『小袖の手』とナナとの僅かな隙間に、闘神符で創られた半透明の防御壁が展開していた。




急に現れた破邪の防御壁に、本体ごと弾き飛ばされた『小袖の手』が、結界の入り口に式神を伴って現れたヤクモに攻撃目標を定めるまでの僅かな時間で、
ヤクモは再び零神操機を構え、

 「式神降神!
震・坎・兌・離!」
 「白虎のコゲンタ見参!
『弧月拳舞』!」

降神して着地様直ぐにコゲンタは地を這うように疾走し始め、その手から放たれた無数の三日月が宙を舞う。
その攻撃は、攻撃態勢に入っていた『小袖の手』と『蛇帯』の両者を悉く引き裂き、消滅させた。










蛇帯の束縛から解放されて地面に膝をついたナナ達の元にヤクモはサネマロとコゲンタを連れて駆け寄り、

 「大丈夫か?!」
 「何とか、ね…」

腕を抑えて苦笑気味に答えるナナの無事を確認し、思わずヤクモは一息付いたものの、いきなり包囲陣の周囲に爆発的に膨れ、溢れ返った妖気を感じ、
全身の皮膚を走るようにぞくりと悪寒が走る。

 「…っ!」
 「あれは…!」

周りに新たな複数の妖(あやかし)の気配を感じ、ナナと同時に顔を上げて見回した周りには、闘神符で創った包囲陣を取り囲むように集まる女郎蜘蛛の子供達の姿。
先程の妖怪を倒す前には、この周囲に女郎蜘蛛の妖気など微塵も無かった筈なのだが、

 「これは…些か愉快な状況ではないでおじゃるな」
 「…袋のネズミってか?」

サネマロとコゲンタは、契約者共々蛇帯から解放されたコマチと一緒に、背後の闘神士2人を庇うように隙無く構え、周りを睨め付けながら皮肉を零すも、
360度全方位を囲まれ、突破する手立てが無い。
力任せにこの場を突破しようにも、下手に攻撃を仕掛けては、契約者諸共、攻撃で折れた倒木の下敷きになり兼ねない。
例え怪我を負ったとしても、式神は闘神神具に戻れば回復も出来る上、最悪、名を散らされたとしても、式神界に戻って“輪廻”するだけで“完全消滅”は在り得ないが、
所詮は脆弱な人間の身でしかない闘神士が怪我をすれば、一朝一夕で治る事はおろか、うっかりそのまま死なれた日には、その契約式神は揃って名落宮逝き決定。
『契約した闘神士を護り、彼らが望んだ契約を完遂する』のは、闘神士と契約を交わした式神の最優先事項だか、自分達が今望むのは唯一つ。
――――『何よりも、この契約者達を護りたい。』





――――張り詰めた空気が皮膚に痛い。
緊迫した周囲の状況を刺激して下手に崩す事を恐れ、動けずにいる式神達の背を見つめるナナは、ヤクモと背を合わせる様にして包囲陣の中央に立ち、
右手に構えた白い闘神機をぎゅっと握り締める。
ヤクモは、周囲に視線を隙無く配りながらも、背後のナナを庇ったまま周囲の気配の流れを探っていたが、直ぐに右手に持っていた零神操機を宙に掲げ、

 「式神降神!」

ヤクモの声に呼応するように宙に展開した八卦陣の向こう、式神界との襖障子を次々に開門し、現世に召喚したのは『消雪のタンカムイ』。

 「震・離・離・震!」
 「ヤクモを傷付けた罪、これで贖ってもらうよ!!『羅知鱈喪来』!!」

地面に着地すると同時に、『数日前に、窓の硝子片で頬に怪我をしたヤクモに攻撃した者』に対して、
未だに仕返しの機会を虎視眈々と狙っていたらしいタンカムイの手から陰陽銛『大志』は離れて宙を飛び、そして、

 「うぎゃあああああっっっ!!!!」

空の向こう、陰陽銛『大志』が落ちた近くの茂みから、悲鳴にしては些か酷い、半ば絶叫に近い叫び声が上がる。

 「あの声、まさか…」

聞き覚えのある叫び声に、ぴくりと耳を動かせたコゲンタが眉を寄せた途端、

 「闘神士の禁を犯す気か!吉川!!」

茂みから青龍のキバチヨを伴って、髪や服の至る所に木の枝や葉っぱをくっ付けたまま、青い極神操機を片手に、
結界の入り口付近にまろぶように転がり飛び出て来たのはマサオミ。
青龍を伴ったマサオミが突然登場した事で、より攻撃的な雰囲気が高まった妖怪達の様子に、ヤクモは左手に闘神符を構え素早く目を走らせながら、

 「こそこそ隠れてる位なら手伝え!」

闘神符『隠』で気配を消して隠れていた為に、妖怪達にも気付かれずに此処まで近寄ったものの、あっさりヤクモに居場所を見破られて、
その上式神の陰陽武器を頭上に落とされ、批難囂々といった有り様のマサオミに怯みもせず、逆にヤクモは怒鳴る。
周りの状況が状況なだけに、マサオミは小さく溜息を吐いて、しぶしぶ極神操機を宙に構えると、

 「あーもう判ったよ!
震・兌・離・兌!」
 「必殺『福福招来加神』!!」

キバチヨの放った技は、包囲陣の外を取り囲んでいた妖―――女郎蜘蛛の子供達の一部も含めた―――を容赦なく消し飛ばした。










キバチヨの放った技に恐れを為したのか、包囲陣の外で群れていた妖怪達が一斉に後退する。
その様子に小さく安堵の溜息を付いてから、周囲の気配を注意深く探りながらも極神操機を降ろし、マサオミは陣の中央に立っているヤクモとナナの方に振り返った。

 「アンタならこの状況でも如何にかするだろうと思って、手出ししなかったんだが…」

肩を竦め、あっさりと言いながら此方に近寄ってきたマサオミの様子に、ヤクモは左手で顔の半分を覆って深い溜息を付き、
ヤクモの背後に立っていたナナはヤクモが溜息を付く側を通り抜けて、右手に白い闘神機を握り締めたままツカツカとマサオミに歩み寄る。
無表情だが、その瞳が妙に据わっている事にマサオミが気付いた時には既に遅く、辺りにはパシン!と平手打ちの音が広がった。

 「…は?」

目を白黒させている…と言うのはこういう状況なのだろうかと、陣の中央で状況を妙に冷静に眺めていたヤクモはぼんやりとそう思う。
ナナの繊手が翻った先には、薄く赤く腫れた左頬を抑えて、目を見開き呆然としているマサオミの姿。

 「一度ならず二度までも北条に喧嘩を売るとは…此方の事情を知らなかったとは言え、相当不運だな…アイツ」

声には出さないが、恐らく同じ事を考えているのだろう――――此方と同じように呆れ返っているコゲンタの表情にちらりと視線を向け、小さくそう呟いて再び溜息を吐く。
マサオミはそんなヤクモの様子に気付く余裕も無く、ただ此方を遠慮なく睨め付ける彼女の顔を呆然と見下ろす事しか出来ない。

 「何故殺したの!」

強い口調で問い質されても、マサオミには、先程の戦闘に於いて自分がやった事は、褒められはしても、怒られる所以はない筈だとしか思えない。
彼女の背後では、吉川が呆れたように溜息を吐くばかりで、何故目の前に立っている彼女が立腹しているのかも判らなければ、さっぱり状況が見えない。
併し、彼女の立腹具合が相当なものなのは黙っていても判るし、このまま泣かれるのは状況的にもっと困る。
弁解しようにも言葉が見付からず、謝るにしても謝らなければならない理由が判らず、最早如何すれば良いのか判らずにおろおろと挙動不審になるマサオミだったが、
マサオミの予想に反してナナは泣き顔の一片も表情に浮かべる事無く、くるりと踵を返すと、背後で溜息を吐いていたヤクモへと歩み寄る。

 「ヤクモ、手伝って。…このまま、何としてでも伏魔殿へ還すから」
 「…あぁ」

気丈に言い放たれた言葉には、悔しさが滲みこそすれ、悲壮感など微塵も感じられない。
目を細めて返事を返したヤクモと共に、呆然とその場に立ち尽くしたままだったマサオミの方に振り返り、

 「今度こそ責任取れ、大神」
 「…はいはい、判りましたよ。
…で、あの妖怪は如何すれば良いんだ?」

俺にはさっぱり状況が判らないんだけどな、と溜息を伴った小さな呟きを零すマサオミに、

 「出来るだけ殺さずに伏魔殿に還したい」
 「不殺、ね…了解」
 「じゃ、行くぞ!」

空中に掲げられた三色の神器は、主の意思に従って同時に空中へと光を放った。












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