午後12時40分。
「お早う御座います…」
まだ半分以上眠っているような覚束無い足取りで台所に現れたヤクモは、食卓の上を拭いていたイヅナに声を掛け、
「お早う御座いますヤクモ様。よく眠れましたか?」
「ん〜…“眠った”と言うか…“眠らされた”と言った方が正解かなー…」
「は?如何いう事ですか?」
「起きたら枕元に見覚えの無い闘神符が落ちてたから…多分、北条に強制的に眠らされたんだと思う…」
まだ符の効力が少し残っているのか、まだ眠そうなヤクモの姿に、
「そ、そうですか;」
「…そう言えば、北条は?」
「ナナ様は、その…」
「…何かあった?」
「何と言いますか、その……先程、買い物先から、先日の食い逃げ犯を一度たりとも休まずに、全力で追われたらしくて…」
「は?大神を?」
「えぇ。残念ながら僅差で逃してしまわれたのですが…それまでの無理が祟って、先程から、居間の長椅子の上で寝込まれてしまって…」
「大神を追って真昼に全力疾走?…何をやってるんだ…」
呆れ返った表情で、それでも直ぐに居間へと踵を返したヤクモの視線の先には、額に濡れタオルを載せて長椅子の上にぐったりと横たわるナナの姿。
「今日も外は真夏日ですし、太陽の光に長時間当たった事と、走って体温が上がった事で、全身に熱が回ってしまわれたようで…
極力体温を下げるように、水分を摂らせて、タオルもこまめに取り替えて、出来るだけの事はしたのですが…」
『眠ってしまわれたようですわね』と、ヤクモの横を通って床に膝をつき、溜息を付きながらナナの額の上の濡れタオルを交換するイヅナの隣に立ったヤクモは額に手をやり、
「…この真夏に、女の子に一歩も休まずに全力疾走させるとは…一体何を考えてるんだ大神は」
吐き捨てるように冷ややかに言い切るヤクモの声に、イヅナは小さく溜息を付くと、
「…ヤクモ様。お怒りなのは大変よく判りますし、お疲れの所大変申し訳ありませんが、ナナ様を寝室までお運びするのを手伝って頂けませんか?
このまま此処で寝かせておく訳にはいきませんので」
「ん、判った」
「では、あまり動かさないように…此方へ」
イヅナは濡れタオルと水差しを持ち、ヤクモがナナをそっと抱き上げたのを確認すると、2人が通れるように静かに部屋の扉を開ける。
「…あぁそうだ、後でもう一枚闘神符作らなきゃ…」
「何か仰いましたか?ヤクモ様」
「いや、何でもない」
背後で小さく呟いたヤクモの独り言が聞こえたのか、先行するイヅナがくるりと振り返ったが、ヤクモは苦笑して誤魔化した。
午後17時。
鬱蒼と繁った古木に覆い隠された、古ぼけた社から淡い緑色の光が溢れ、
「あ〜…災難だった…」
『行きそびれたね〜…新太白神社』
キバチヨが見上げた青空には既に茜色が射し始め、現世が緩やかに夕方へ向かっていることを指し示し、
伏魔殿と繋がっている鬼門から、ぐったりと身体を引き摺るようにして姿を現したマサオミは、社の石段に座り込んだ。
「あ〜…もう夕方か〜…そろそろバイクも取りに行かなきゃな…って!」
『マサオミ!』
「判ってる。…何か来る……っ!?」
神操機を片手に背後を振り返ったマサオミの頬を掠めるように、視認出来ないような速さで“紅い何か”は通り過ぎ、
「あれは…闘神符?!」
闘神符は鳥居の手前でくるりと方向転換すると、弓に番えられた矢を引き絞るように、自身をたわめて空中で静止し、
『…ねぇマサオミ君。あの闘神符って…昨日の昼過ぎにボク達を狙ってきた闘神符じゃあ…』
自分達を取り囲むように、次第に枚数が増えていく闘神符を隙無く見つめながら、
「た、多分…」
…昨日の昼過ぎ、鴨川の辺でボート部の練習を眺めていた自分達の背後から襲い掛かった4枚の闘神符。
当時は誰が放った闘神符なのかは判らなかったが、今なら判る。
「…吉川の所為かぁぁぁぁぁっっっ!!!!」
これ以上闘神符が集まってこないうちに『逃げるが勝ち』と、脳内で計算結果を弾き出したマサオミは、懐から取り出した闘神符で正面の闘神符を蹴散らすと、
社の入り口へと猛ダッシュを始め、
『若しくは、あの娘かのどちらかだね〜或いは、どっちもかも』
「余計性質悪いわぁっっ!!!」
『マサオミ君、バイクはこっちだよ〜』
「何でまた走らなきゃいけないんだー!!!」
『マサオミ君がバイク置いて来たからじゃない?』
―――…時刻は夕刻。
闘神符に追われて走る2人の頭上にも、“逢魔ヶ時”はすぐ其処にまで迫っていた。
蒼かった夏空は綺麗な茜色に染まり、逢魔が時がすぐ其処まで迫っている――――そんな、『狭間の時刻』を迎えた街中で。
『もう、何やってんのマサオミ君!』
「何も言うな、キバチヨ!!」
半ば泣きながら闘神符に追われて走るマサオミの行く先に、青い光を放つ八卦陣が浮かび上がる。
「この急いでる時に又かーーーーっ!!!」
叫びながらも、背後からは徒人には見えないように態々細工された闘神符の群れが追って来ている所為で、最早マサオミには目前の八卦陣に向かって走る以外に逃げ道はない。
そんなマサオミの前に、八卦陣から白い人形が飛び出し、
「…折角の良い機会だ。そのまま不審者扱いでとっ捕まって、留置場生活でも存分に味わって来い」
八卦陣に浮かび上がったのはヤクモの姿。
マサオミに向けられた琥珀の瞳は、絶対零度の冷たさを保ち、冷ややかに告げられた声にピシリと固まる暇もなく、八卦陣は音も無く消滅する。
後に残ったのは、役目を果たした白い紙の人形が1枚きりで、
「まっ、待て吉川〜っっ!!」
マサオミの悲鳴……寧ろ断末魔の叫びに近いかも知れない……が、鴉の鳴き声が聞こえる夕焼け空に響き渡った。
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