水底から、揺らめいている天上の光を眺めているような――――そんな、眠っているとも起きているとも判断が付かない、曖昧な感覚。
微睡むように僅かに浮上した意識は、視覚からの情報を与える事は無かったが、その代わりに聴覚が音を拾い始めた。

 『熱が出ていますわね…』
 『…御免なさい。此処まであのヤクモが弱ってるだなんて思ってなくて…』
 『それはヤクモ様本人が起きてから仰って上げて下さい』
 『判ってる…』

その会話が何を意味しているのか、誰の事を言っているのかという事までは、思考が回らない。
けれど、

 『…ヤクモ?起きたの?』

ぐったりと力が抜けたままの自分の身体を少しだけ起こして、支えていてくれるその腕の暖かさと、
少しずつ口の中に流し込まれる…意識が無くても反射的に飲み込めるだけの飲み物の温かさだけは、再び深く沈み始めた意識の中でも印象に残った。






午前11時。
電車を降りて、京都駅にボストンバッグを降ろしたリクは、自分の隣で座り込み、盆地ならではの湿気の高さと夏独特の暑さに早速参り始めている
上善寺モモに声を掛けた。

 「モモちゃん…大丈夫?」
 「大丈夫じゃないわよもう〜〜〜〜何でこんなに暑いのよっ!」
 「京都は盆地だから、朝と夕方…って言うか、夜以外はすっごく暑いのよねぇ…」

おっとりとした口調で床に座り込んだモモに手を差し伸べるのは、同じクラスの麻生リナ。

 「お前ら!この位の暑さでめげてんじゃねぇ!!これから夕方までボート部の強化合宿なんだからな!!」

一人張り切って、長ネギを片手に叫ぶのは香美屋リュージ。

 「暑いのイヤ〜〜〜〜っっ!!!」

モモの悲鳴じみた叫びは、京都駅の高い天井に響き渡った。





 『京都ですか…懐かしいですね』

極神操機から霊体の姿を現したのは『芽吹のバンナイ』。
嘗て、リク…天流宗家ヨウメイの実父である天流宗家イッセイの式神であったバンナイは、
半年前に漸く終結した陰陽大戦後、『契約満了』を迎えて式神界へ還った白虎のコゲンタと入れ替わるようにして、
リクの守護式神として現世に降神し、リクと契約を交わした。

 「バンナイは京都を知っているの?」
 『勿論。貴方の父上であるイッセイと契約していた千年前もそうですが、その後も幾度か、他の契約者と共にこの街を訪れた事があります。
それに…此処は貴方の生まれ故郷ですよ。リク』
 「そうなんだろうけど…あんまり実感無くて」

苦笑しながら街並みを見つめるリクの瞳は穏やかな光を湛え、

 「父上の事も母上の事も覚えてる。勿論、断片的ではあるけど…千年前の京都の街並みも。
でも、今のこの景色からは、殆ど当時の面影を思い出す事は出来ないんだ」
 『当然でしょうね。思い出せたら其れこそ凄いですよ』
 「京都かぁ…ヤクモさんやナズナちゃんにも、久し振りに会えるかな?」
 『会えると思いますよ。ヤクモ君…あの方も、貴方のように数奇な運命をお持ちの方ですから。それに…』
 「それに?」
 『…いえ、何でもありませんよ』

首を振って会話を終わらせたバンナイに疑問を覚えたものの、

 「リッくん、早く早くー!!」
 「リク!!置いてくぞー」
 「あぁっ、待ってモモちゃん、リュージ君!!」

手に持っていたボストンバッグを抱え直すと、千年前の京都から現代へと現れた天流宗家ヨウメイ――――太刀花リクは、
太陽がじりじりと照りつける京都の街中へと飛び出して行った。






さらさらと涼しそうな水の音を立てて流れる鴨川の河川敷は――――ある意味『熱したフライパン』のような熱さを保っていた。

 「あ、暑い…」
 「ねぇリュージ君……少し日が翳るまで待とうよぉ…」
 「何言ってんだ麻生!お天道様が天上に居るうちに特訓しないと意味が無いだろうが!」

 『秋の大会に向けて、まずは腕の強化特訓だ!!』

1時間ほど前、京都駅前で矢張り長ネギを片手に叫んだリュージが左手に握り締めているのは、ボート部の部費で買った硬式の野球ボール。
本人曰く、『キャッチボールを繰り返す事で、腕の力のみならず、全身のバランス感覚も鍛えられる』という効果付きの特訓を始めたのは良いものの、
昼間の京都市内の暑さは尋常ではない。

 「えぇっと…33℃を軽く越えてるんだけど…リュージ君」

拭っても拭っても流れ落ちてくる汗をタオルで拭いながら、リクは焼け付くような高温の石の上に腰を下ろす。

 「う〜ん…流石にこの温度の中遊び回るのは駄目だと思うぞ?」
 「やっぱりそうですよね〜…って、マサオミさん?!」

背後からさらりと聞こえた声に思わずぎょっとして振り返れば、其処に居たのは、1年半前に何も知らなかったリクに闘神を教えた闘神士・マサオミの姿。

 「一体何時…何故此処に…」
 「ん?いや、鬼門の側に近寄らないようにするには、川沿いに居るのが一番でね…」
 「は?鬼門?」
 「いや、何でもないんだ…ちょっと色々あってね……」

果てしなく遠い目で、顔を逸らして明後日の方向へ視線を向けるマサオミの様子に、リクは本能的に『訊かない方が身の為』だと判断したらしい。

 「まぁ良いですけど…」

と、不思議そうに首を傾げながらも――――それ以上追求してくる事は無かった。




 「…で、一体何をしてるんだ?」
 「秋にボート部の大会があるので、夏の合宿を利用して、キャッチボールで腕の力を強化するんだそうです」

手の中のボールに視線を落としながら、苦笑じみた笑顔で丁寧に説明するリクの説明に、

 「ふぅん……式神降神!」
 「って、ぇえ?!駄目ですよマサオミさん!この時間じゃ他の人に見られ…って、あれ?」
 「大丈夫、キバチヨの周りにだけ闘神符を張ったから。…リク、そのボールを貸して」
 「え?あぁはいどうぞ」
 「キバチヨは向こうへ」
 「OK!」
 「一体何するんですか?マサオミさん…」
 「ん?『暑いの暑いの飛んで行けーーーーーーーーーーーーー!』ってね☆」

野球部も真っ青の投球を見せるマサオミもマサオミだが、30mほど向こうに立つキバチヨが陰陽矛『逆鱗牙』をバットのように構えているのは如何云う所存だろうか。

 「ま、まさか…」

嫌な予感がリクの心を過ぎったその瞬間、

 「ははははははははははははは!!!!」

キバチヨの高笑いと共に、豪快にスイングされた逆鱗牙の柄に当たって豪速と化したボールは、ちょっとした風圧を周囲に起こしながら空の彼方、
街の向こうへと一瞬で飛んで行ってしまった。

 「…マサオミさん、あれ、一応ボート部の備品なんですけど……」

昨日の朝の鬱憤晴らしも兼ねていたマサオミの爽やかな笑顔に、リクの引き攣った声は届かなかった。










午後12時30分。

 「う…」

久々に随分深く長く眠った所為か、如何にも眠気が中々取れず、むくりと布団の上に起き上がってから、寝惚け眼のままでふるふると首を振るヤクモの姿に、

 『目が覚めたか?ヤクモ』
 「コゲンタ…?」
 『大丈夫か?』
 「うん…何か頭が痛いけど」
 『はははは…それは本人から謝ってもらえ』
 「…は?何の事?」
 『起き上がれるようなら、台所に行ってみるんだな。闘神巫女と代わる代わる付きっきりで看病してもらったんだからよ』
 「看病?何の事だかよく判らないけど…」

頭上にクエスチョンマークを幾つも飛ばしているヤクモに苦笑すると、それ以上コゲンタは何も言わず、再び零神操機の中に姿を消してしまった。

 「コゲンタ?…まぁ良いか」

自分の記憶にはさっぱり無いのだが…何時の間にか寝巻き姿に着替えているという、ちょっぴり浦島太郎的な状態になっている事にヤクモは首を傾げつつ、
枕元に綺麗に畳まれて置かれていた服へと、袖を通し始めた。

 「お早う御座います…って、あれ?」

キッチンの前で、此方に背を見せて立っていたのはイヅナでもナズナでもなく、数年前に会ったきりの北条ナナの姿。

 「ヤクモ!起き上がっても大丈夫なの?!」
 「え、あ、うん。でも何で北条が此処に…?」
 「え?え〜っと…あはは。昨日の昼にこっちに来たから…」

ヤクモが台所に入って声を掛けた途端に、剥いていたらしいジャガイモと包丁を俎板の上に放り出して、流しの前からすっ飛んで来たクセに、
何故か明らかに自分の顔から目を逸らすナナの様子に、流石に怪訝そうな表情を浮かべたものの、そもそも神出鬼没な姉妹である事は昔から判っていることだ。
適当に理由をつけて納得すると、ヤクモは台所を見回し、

 「イヅナさんとナズナは?」
 「モンジュ様と一緒に神殿の方へ行くって」
 「そう…」

椅子の背に手を掛けて、壁に遮られて見えない筈の神殿の方向に視線を向けたヤクモに、

 「ヤクモ!」
 「何?」
 「あっ、あのね、昨日は…っ」

昨日の昼に手甲で殴ってしまった事を謝ろうとしたナナだったが、

 「危ない!!」
 「え…?」

窓硝子が砕け散る甲高い音と共に飛び込んできた“何か”を把握する間もなく、間一髪でヤクモはナナを庇い、そのまま床に倒れ込んだ。





 「痛ったぁ…っ……」

ヤクモの身体が盾になり、抱き抱えられて庇われた為に幾分か衝撃は和らいだ方だが、それでも痛いものは痛い。

 「く…大丈夫か?北条…」
 「私は大丈夫。でも、一体今のは何……?」

思わず反射的に瞑ってしまった目を少しずつ開いたナナの右頬に、温かい雫がポタリと流れ落ちる。

 「?」

右頬に右手をやると、手のひらに付いていたのは紅い血。
その血の雫が落ちてきた先にいるのは、自分を押し倒すように庇った――――

 「ヤクモ!頬が…」

窓から“何か”が飛び込んできた時に砕け散った窓の硝子片で切ったのだろう、頬に一筋の傷が付き、其処から血が流れ落ちている。

 「この位大丈夫だ。それより、今のは…」

硝子片の散らばった床からナナを庇うように身を起こすと、

 「駄目!」
 「駄目?何が…」

言いかけて振り返ったナナの目が異様に据わっているその形相に、思わずヤクモがビクリと怯む。
ナナはスカートのポケットから取り出した数枚の闘神符を、破られた窓に向けて投げると、

 「何処の誰だか知らないけど、見つけたら絶対に容赦しないわよ…!
…ヤクモ、この家に救急箱は何処にあるの?」
 「何時もはイヅナさんが持ってるから…俺は知らない……」

完全に頭に血が上った―――…と言うか、激怒してしまったらしい彼女は、ヤクモの腰のホルダーに入っている零神操機を指差し、

 「じゃあ、この家の事をよく知っている式神を喚んで」
 「この家の事…ブリュネかコゲンタかタンカムイ…かな?」
 「早く!」
 「はいっっ!…式神降神!!」

何故か理不尽な気持ちが心中渦巻いているが…彼女に逆らっては命が無い。
言われるがままに3体を喚び出すと、

 「大丈夫でありますか!ヤクモ様!!」
 「大丈夫か?!2人共!!」

『青龍のブリュネ』と『白虎のコゲンタ』は、降神するなり殆ど同じ反応を示し、床の上に座り込んでいる2人に顔を突きつけるように迫ったが、

 「…君達、何の為に降神されたか覚えてる…?」

2体の肩にペタリ、と置かれた冷たい鰭の感触と声に、2体の式神は同時にビクリと肩を震わせ、思わず視線を向けた4人の視線の先には、
絶対零度の笑顔を浮かべたタンカムイの姿があった。












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