藤原家の傍にある広い野原は、先生の格好の遊び場になっているらしい。
「先生ー!そろそろご飯だぞー?
…ったく、何処へ行ったんだよ………先生ーっ!」
日中の日差しは日に日に暖かくなり、少しずつ春が近付いている事を感じさせてくれるのだが、日が落ちれば、気温は途端に冬に逆戻りする。
年始の頃は、日中であっても寒いと言って毛布に潜り込んでいたくせに、その頃よりは少しばかり暖かくなった…とも言えなくはない此処最近は、毎日のようにこの野原で遊んでいるようだ。
用心棒だと言うのに、まるでその職務を真面目に全うする気がないらしい先生の姿は、夕闇の落ち始めた野原の何処にも一向に見えず、夏目は小さく溜息を吐いて、徐に空を見上げた。
「一番星…」
空は茜色から藍色の夜空へと美しいグラデーションを見せ、暗い群青色の空に浮かぶ美しい三日月と、その少し隣に淡く光る一番星が、次第にその輝きを強くしている。
「…お前は何を見とれているんだ」
「わぁっ!!…って、何だ、先生か」
「何だとは何だ!帰ったらお前の姿が見えないから、態々探しに来てやったというのに!」
足元で憤慨している小さな存在に、夏目は小さく苦笑すると、そっと白い猫を抱き上げる。
「…俺も、一応先生を探しに出て来たんだけどな」
「何だ。ではただの入れ違いではないか」
「そうだな」
暖かい夏目の腕に抱かれた猫は、心地良いのか気持ち良さそうに目を細めながらそう呟いて、夏目の見ていた夕空をやおら見上げると、
「そう言えば夏目、もうすぐ彗星が見られるらしいぞ」
「…そうなのか?」
「新聞にそう書いてあったぞ。読まなかったのか」
「最近、帰ったら勉強ばっかりしてたからな…」
そうでなくても、今までの自分は俯き、地を見てばかりで、空を仰ぎ見る事は殆どなかった。
…だからだろうか。天上にこんなにたくさんの星達が輝いている事に、今まで気付こうともしなかった事に、少しばかり愕然となった。
「―――その彗星が来たら、一緒に見ようか、先生」
「夜更かしをして、また風邪を引いても知らんぞ」
「平気だよ。先生が居るじゃないか」
「何?!この優美で高貴な私を湯たんぽ代わりにするつもりか、夏目!」
「2人で毛布にくるまってれば、寒くないよ。先生」
「…むぅ」
途端に押し黙った腕の中の白い猫に小さく笑うと、夏目はもう一度空を見上げた。
流れ星は願いを叶えてくれるという。ならば、彗星も願いを叶えてはくれないだろうか――――この、優しい人達が沢山いる町に、少しでも長く居られるように―――…
何処か寂しそうな顔で夕空を見上げる夏目の表情に、猫は小さく溜息を吐き、
「…帰るぞ、夏目。塔子が待ってる」
「あぁ。あんまり帰りが遅いと、心配かけてしまうしな…」
猫の言葉に同意した夏目は、闇の落ち始めた野原を後にする。
ひとりと一匹が歩む先に見えるのは、藤原家から零れ落ちる暖かな光。
2人が去り、先刻よりも更に暗さを増した野原の天上では、白く輝く河がうっすらと見え始めていた。