16年前の、夏。
…俺に“家族”が居た、「最初」で「最後」の夏。
その後は、多少なりとも血縁関係のある“他の家族”の中で、それでも“家族の一員”ではない異存在として、爪弾きに合いながらの疑似家族を演じるだけの日々。
今となっては、俺は両親に望まれて生まれてきたのか、それとも、そうでなかったのか――――それさえも訊く事は叶わない。
生まれた後、両親と死別するまで見ていたであろう両親の顔は、どんなに記憶を深く掘り起こしても思い出す事は欠片もない。
記憶ある限り、この瞳は見たくもない妖を映しても、ただの一度も“家族”の姿を映してくれる事はなかった。
両親が居なかったことを寂しいと思う事はあまりなかった。
…ただ、とても『悲しい』とだけ思っていた――――ずっと。
どんなに望んでも死者は蘇らない。過ぎた時間は元に還らない。
…その事実が、無力で、孤独で、子どもだった俺を、更に打ちのめした。
「…め、夏目。起きんか」
「…………せん、せ……?」
窓を塞ぐ障子越しに、月の光が夜の部屋に降り注ぐ。
俺が眠っていた枕元で丸くなっていたのは、布団の上で丸くなっていた筈のニャンコ先生の小さな姿だった。
「お前という奴は…毎晩毎晩同じ夢を見て、よくも見飽きないものだな」
「…別に、見たくて見てるんじゃない」
布団から上半身を起こし、目じりに溜まった涙をそっと指で拭う。
冬の夜には、己の涙ですら冷たく、拭った指の先から体温を奪っていく。
部屋を照らす青白い月の光は、余計に部屋を寒々しく思わせた。
――――“ヒトリ”には、慣れていた筈なのに。
「…寒い」
目前に広がる、部屋に落ちた薄闇が怖い。
この家に来るまで、幾度も似たような景色を、経験をした筈なのに、いつまで経ってもそれに慣れる事はない。
“独り”は、寒い。
“ひとり”は、怖い。
“ヒトリ”になるのは、もう嫌―――…
「…やれやれ、全く世話の掛かる」
「…ぇ?」
傍で聞こえた声と、トトッと小さく布団の上を駆けて潜る、くぐもった小さな音。
布団に隠れた足元からもぞりと顔を出した白い猫は、ひとつ小さな溜息を吐くと、此方を見上げ、
「寝るぞ、夏目」
そう言って、布団と伸ばした膝の上との間で、先生は再び丸くなった。
先生の唐突な行動に、目を丸くして――――そこで漸く、自分が涙を流している事に気が付いた。
単にぼんやりと薄闇を見ていたつもりだったのに。
……泣いているつもりなんて、一切なかったのに。
「…お前はもう、独りじゃないだろう、夏目。何をそんなに毎夜泣く事がある」
『お前は私との約束を忘れたのか?』と、先生は大欠伸をしながら呟いて、再び丸くなった。
先生との約束………それは、俺の死後に友人帳を先生に譲るという約束。
俺が命を落とすその瞬間まで、用心棒として傍に居てくれる約束。
俺が死ぬまで、誰よりも俺の傍で、全てを見届けると約束してくれた存在。
――――両親を喪って、たった独りきりになった俺の傍に居ると、初めてそう言ってくれた、俺の猫。
「……ありがとう。有難う、先生」
「に゛ゃ?!何だ一体いきなりっ…抱き締めるなー!!!」
布団を被っていない半身はとうに冷えて、ひどく寒かった。
けれど、手を伸ばして抱き締めた先生の身体は、今までの冬の夜のどれよりも暖かくて、その優しい温度に、益々涙が止まらなくなった。
塔子さん達を起こさないようにと、気を遣って必死で嗚咽をかみ殺している所為か、ひどく呼吸が苦しい。
…でも、涙は、もう暫く止まりそうになかった。
腕から解放してくれそうにないと早々に悟ったのか、嗚咽が止まらずに呼吸困難気味の俺が落ち着くまで、先生はずっと俺の腕の中から抜け出す事無く、撫でられるがままにじっとしていた。
その温度が心地良くて、やがて横になって布団を被った俺の意識は、次第に現実との境界が曖昧になり始める。
「――――お休み、夏目。今度は良い夢を」
耳元でそう呟く小さな声が聞こえたような気がしたけれど、俺の意識はそのまま、眠りの中へと再び沈んで行った。
傍に――――腕の中に、暖かくて、小さくて―――それでいて、大きな存在を感じながら。