――――それから暫し後の夏目については、私自身詳しい事はよく知らない。
彼を引き取った養い親との間に何かあったのか、それとも別の何かがあったのか――――何れにせよ、夏目は唐突に私の前から姿を消した。
まるで神隠しにあったかのように忽然と消え失せた彼の行方は杳として知れず、憔悴しきった様子の養い親の夫妻は、私に夏目の捜索を依頼してきた。
夏目と一緒にあの用心棒の大妖の姿も消えている事から、最も可能性が高いと感じたのは、彼が妖の世界へ連れ去られたのであろうということ。
その次に浮かんだのは、彼が妖に喰べられて、肉の一片どころか骨すら残さずに喰べられた可能性だったが、それに関しては考えるのも悍ましく、極力考えないようにしてきた。
彼が用心棒を連れていたのは、正に自身を妖に喰われないようにする為ではなかったか。その肝心の用心棒が既に人を喰う妖であった地点で、彼の行動には矛盾が生じるが、少なからずとも、私の知るあの用心棒の大妖は、夏目を
護りはすれど襲う気配は無さそうだった――――そうでなければ、夏目があんなにも大切そうにあの不細工な猫を抱き上げていたりなどしなかっただろう。

白い白い、狐か狼に似た高位の大妖を視なかったか。若しくは、若い青年の姿を見掛けなかったか。
俳優としての表の仕事をこなしつつも、裏の仕事である妖祓い人として、そして夏目の友人として、妖の噂を追い続けて早十年。
笹後の持ってきた『白い妖』の目撃証言のあった夜の山へと分け入れば、古木が倒れ自然と広くなった緩やかな山の斜面に、大きな身体を猫のように丸く丸めて横たわる、見覚えのある白い大妖の姿を視つけた。
思わず駆け出そうとした途端、目指す白い大妖から、敵意の混じる警戒の気配が爆発的に膨れ上がる。大妖の居る場所は月の光に照らされているが、此方は木の陰で、碌に姿など見えない筈なのに、白い大妖はその鶸萌黄色の瞳を迷う事無く此方に向け、

 『久方ぶりだな、名取の小僧』
 「…名前を覚えていてくれたとは光栄だよ」

此方は相手を視付けてから殆ど動いていないというのに、既に正体まで見切られては、木の陰に隠れていてもまるで無駄だ。
敵意はないと、両手の内をひらひらと相手に見せながら――――その実、羽織っているジャケットの内ポケットから、紙人形と呪符が即取り出せるように、手順を頭の中で思い描き復習しながら、殊更ゆっくりと妖に近付こうと歩を進めた。
だが、

 『それ以上近付くな』

告げられた言葉は明確な拒絶。

 「…何故?」

そう問い掛けると同時に、

 「…先生…?」

白い大妖の長い毛に埋もれ隠れていた存在が、微かな声を上げて身動ぎした。

 「…っ夏目!」

薄い色の着物を着て、蒼い単を羽織ったその後ろ姿が夏目であると視認し、駆け寄ろうと歩を進めた途端、白い妖が鋭い殺気を放ち吼えた。

 『主様!』

連れている妖達が姿を現して、私を護るように大妖との間に割り込む。

 『おのれ斑、主様は別に何もしていないだろう!』
 『夏目を連れては行かせない。これは私のものだ』

その白いふわふわした身体で夏目の細い身体を隠し、斑は私達の前に立ち塞がる。

 「…夏目!一体何があったんだ!せめて説明してくれないか!」

如何にあの白い大妖に立ち塞がられようとも、間に結界が張られている訳ではないのだから、言葉は届く筈だと声を上げれば、背を向けていた夏目がゆっくりと此方を振り返った。

 「…な、つめ…?」

驚愕に身を貫かれ、声が震える。
高校生だった夏目が、人の世界から消えて十年は経つ。普通に考えれば三十路前の青年姿の筈の夏目の姿は、私が最後に見た少年の彼と寸分何の変わりもなかったのだ。
何の感情も宿さない能面のような白い顔。薄い白緑の瞳が此方を見る。その額には、人の姿を取る妖に多い紋様が浮かんでいる――――隣で夏目を庇い立つ、あの白い大妖の額にあるものと同じ紅い紋が。

 「…っ貴様!夏目を己の眷属にしたのか!!」

一瞬、あまりの驚愕に息が止まったかと思った。
夏目の額に浮かぶその紋様の指す意味は、人から妖に転じるという事だ。即ち、もう夏目は『人』ではない。

 『それを望んだのは此れだ』

驚愕に取り乱す此方とは対照的に、殊更静かに白い大妖は答える。
『尤も、その所為で、人だった頃の記憶を大分失ってしまっているがな』と続ける大妖に、私はありったけの憎悪を籠めて呪符を叩き付けた。
然し、渾身のその攻撃を軽く往なすように呪符を流され、心の中の“冷静な妖祓い人の私”が小さく舌打ちをする。
自分が祓い人として成長するのと同じくして、妖は永く生きるほど妖力を増し強くしていく。それは妖にとってはほんの一瞬であろう十年という歳月であっても、時が経つという事は、この大妖にもそれだけの力を与える。
何より、この十年は空振りばかりで、然も山歩きが多い以上、術に必要な道具一式を背負って歩く訳にも行かず、最低限の軽装で探索する事が多くなっていた。それが、こんな形で不利になるとは。

 『小僧。夏目から手を引け。
お前は夏目の友人だった人間だ。もう此れはお前の事を覚えていないだろうが、私は憶えている。此れがまだ人間だったなら、きっと私を止めただろう。
…だから、手を引け。お前と戦いたくはない』

溜息を吐くように白い大妖はそう告げると、一言も話さない夏目を無言で促して背に乗せて夜空へ舞い上がった。
逃がすかと追撃しようとしたが、白い大妖の背に乗る夏目がひどく穏やかに微笑うのが見えてその手が止まる。
感情の籠らない透明な笑み。然し、彼が人だった頃には決して見られなかった幸せそうな微笑み。

 『済まないね。お前さんに夏目の若さまを渡す訳にはいかないんだよ』

呆然とただその姿が視界から消え去るのを見送るしかない私の背後から聞こえたのは、若い女の声。
はっとして振り返ろうとした瞬間、首に手刀を叩き込まれて私はその場に崩れ落ちた。

 『レイコも夏目も、もう充分人という存在に苦しんだ。
レイコは死んでしまったが、夏目には生きていて欲しいんだよ…お前がそう望んで夏目を捜していたように、私達もね…』

また別の女の声が傍で聞こえる。
掠れ始めた視界で最後に見えたのは、柊達ではない着物姿の女怪が二人と、顔の大きな妖が少し離れた所に立っている様子。
その気配が中級妖怪などというレベルのものでない事が頭の片隅を過ぎったが、意思に反して意識は次第に現実から遠ざかっていく。

 「なつ、め…」

私の意識から最後に零れ落ちた名前が音になる事は、終ぞ無かった。