初めてその姿を見掛けた時、『あれは人ではない』と、そう感じた。
高位の妖は人の姿に化け、人の振りをして、人に気付かれることなく人に混じって生きているものが時折存在する。
そして、大抵はそのまま人を襲うのだ――――奴等は決して無害な輩などではない。
仮に奴等が何もしなくても、ただ存在するだけで気持ち悪いのだ。――この、皮膚に取り憑いたヤモリの妖のように。





無害な人を装って、そのまま油断しているところを祓おうと――――仮に祓うことは出来ずとも、せめてもの封印し、人々の安寧を守るつもりでいざ近付いたそれは、限りなく妖に存在感が似た『人』だった。
人というよりは、妖に似た不思議な気配を持つその少年…夏目は、自分と同じように妖を見るらしい。恐らく私を上回る強い妖力を持っているにも拘わらず、夏目は術のひとつも知らない。
妖力の強い人間は妖達にとっては極上の食糧に他ならない。幾ら妖力が強くとも、その力を上手く行使し、妖を退けて己を守る方法を知らなければ、そう遠くない未来にこの子は妖に喰べられてしまう運命にあっただろう。

だが、夏目は無視できない存在を連れていた――――世が世なら、神と崇められていた時があったかも知れない、とんでもない高位の大妖を『用心棒』として傍に置いていたのだ。
本人達の言を信じるなら、対人的には飼い主とペットの関係。あの大妖はあくまで夏目の用心棒であり、夏目が使役している訳ではないらしい。

自称用心棒のその大妖は、普段はつるふかした丸い体型の、不気味顔の三毛猫の姿を取り、徒人にもその姿を不細工な猫として認知させている。
だが、人の姿にせよ、他の動物の姿にせよ、完全にその姿を真似て、違和感なく化ける事の出来る妖は、往々にして己の意思ひとつで何でもやってのける。
この三毛猫姿の大妖に至っては、己の封印に使われた招き猫の依代と今や完全に同化してしまっている――――こんな高位の大妖の封印に使われたくらいなのだから、相当高名な人が焼いた物だったのだろうが、まるで封印になっていない。
これでは封印を逆手に取られて、別な器を与えてやったも同然だ。

況してこの大妖は、己の意思で本来の姿とこの招き猫の依代の姿のどちらをも自由に取る事が出来た。この分では、人の姿に化けて人に近付くのもさぞ容易な事だろう。
高位の妖になればなるほど、妖力を持たず、普段妖を見る事のない徒人に態と己の姿を見せて畏怖させる事も、巧みに人を惑わせて騙し、そのまま襲って喰べる事も厭わない。
人が牛や豚を食べるように、妖達は人を喰べるのだ――――そしてそんな妖の隣に、強い妖力を持つ無力な子どもが一人。はっきり言って、夏目はいつこの大妖に喰べられてもおかしくない状態だった。


仮にこの用心棒気取りの大妖と相見える事になった時、今の己の実力を鑑みると、使役している妖達の持つ力と、今の自分が知り得る全て知識を駆使し、術を叩き込んだとしても、勝てる見込みどころか、まともにぶつかればただでは済まないと判っていながらも、ただ『妖が見えてしまう』という不可抗力の、本人には何の非もないただそれだけの事で、人からは奇異の目で見られ、辛い過去を背負って生きてきたらしいこの少年を少しでも守ってやりたくて―――普通の、優しい子どもなのだと、その事を知ってもらいたくて、遠巻きに彼を守ることに決めた。
だが、彼は幼い頃から心に受け続けた謂われ無き傷の所為で、未だ人と係わる事を苦手とし、少しでも裡に踏み入ろうとすれば、するりと水のように避けて逃げて行く。
用心棒が人の言葉を解する妖だという事もあるのだろうが、彼は己を迫害し続けた人よりも、時折襲われたとは言え、己と同じく孤独を抱えるものが多い妖の方へ心を奪われている。
故に、人よりも妖達に共感を覚え易く、奴等の事を信じて引き寄せられてしまう。
このままでは、いつの日か、夏目は人の世から妖の世界へ連れ去られてしまう日が来るのではないかと――――自ら人と、人の世を見限り、人であることを捨ててしまう日が来るのではないかと、それだけが気懸りだった。

何時だって、夏目はその危うさを孕んでいた。どんなに言葉を尽くしても、彼は人の言葉を素直に信じようとはしなかった――――信じる事が出来なかった。
それが、彼が人から受けた心の傷の根の深さを端的に証明している。彼が時折人に対して見せる酷薄な表情は、彼をより妖に近い存在として周囲に映る事も。
人を憎み切れず、かと言って愛しきることも出来ずに日々もがいている不器用な子どもに、もう独りではないのだと、もう妖などに構ってもらわなくても、夏目本人を見てくれる人間は沢山いるんだと言う事を知ってもらいたくて、妖祓い人達の会合に連れて行った事もあった。
だが、彼は妖怪だけでなく、人にも注目される存在になってしまった――――まだ己を守る術を知らない彼は、興味をそそる恰好の対象。
これでは逆に彼を危うくしてしまうかも知れないと、あれ以来会合には連れて行かないことにしていた――――だが、既に手遅れだった。


己も裂傷を受けたというのに、妖祓い人の的場に受けた矢傷が原因で、未だ深い回復の眠りに入ったままの三毛猫姿の大妖を夏目は大切そうに抱いている。
普通の妖であれば、的場の矢を受けた地点で祓われて消し去られていただろう。助かったのは偏に下級中級妖怪を従える事ができる主クラスの大妖怪だったからだ。
裏を返せば、的場ほどの実力があっても、一撃でこの妖を消し去ることは出来ないという事。
何より、手負いの妖は本能に従って、文字通り死に物狂いで襲い来る。夏目が彼を止めていなければ――――この招き猫姿の大妖がその言を聞き入れていなければ、的場は幾らでも破魔矢を放ち、確実に夏目の前から消し去ろうとしただろう。





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