にこやかに微笑みながら『今日はお友達を連れて帰って来てね』と言う塔子さんの言葉に、取り敢えず頷いて……併しながら、その意図がまるで判らず、首を傾げながら学校へ出掛けたのが今朝の話。
何故かいつも以上に浮かれている西村の様子に、不思議半分苦笑半分で、北本と一緒に下駄箱で靴を履き替えていたら、地震かと一瞬勘違いするほどの地響きと共に、目を爛々と輝かせて、廊下から押し寄せてきた女子の大津波に呑まれ、そのまま何処かで頭を打ったらしく、いきなり保健室のお世話になる羽目になったのが始業前の話。
今日は厄日なんだろうか。―――そう言えば、今日は13日の金曜日だった。
…頭の片隅でそんな事を思いながら、俺はそのまま気を失った。
―――明らかにいつもと違う学校の雰囲気。
皆、何処か浮かれているようで、その一方で激しく火花が散っている、…そんな矛盾した雰囲気を遠くに感じながら、鈍痛を未だに訴える頭の痛みを我慢して目を開くと、何故か俺を見下ろす西村に北本、田沼に辻、笹田に多岐の6人が、一様に安堵した表情を見せたのが判った。
「…あれ?何で皆…って言うか、俺…何で寝てるんだ…?」
「下駄箱んとこで、女子のバレンタイン突撃に遭ったんだよ、お前」
「そうそう。で、どっかで頭ぶつけて、そのまま気を失ったってワケ」
見覚えのない部屋で、いつの間にか眠っていた事実に混乱する俺に、『まぁ落ち着け』と言いながら、頬や鼻、手の甲に、絆創膏を幾つも貼り付けた北村と西村が、何処かげんなりした様子で語るその横で、無言で頷きながら、2人を慰めるように双方の肩を叩く田沼と辻も、何処か遠い目をしている。
…何かあったんだろうか?
「始業前にいきなり保健室に担ぎ込まれたのよ、夏目君」
「…大丈夫?」
これまた何やら怒っているらしい笹田に、小さく首を傾げて訊ねてくる多岐。
「そうなのか?…大丈夫。まだちょっと痛いけど」
取り敢えず、痛む頭を押さえながら上半身を起こし、ベッドから出る事にする。
朝からずっと意識を失っていたらしく、一度も授業を受けないまま放課後になってしまっている事に、ちょっぴり浦島太郎的な気分が味わえたが、それよりも早く帰らないと塔子さんが心配するだろう。
詳しい話は追々皆から訊く事にしようと思い、俺が目を覚ました事に気付いた保健の先生から、一通りの検診を受けて帰宅許可を貰った後、多岐から手渡された制服に袖を通しながらベッドから出ると、
部屋の隅には、俺の鞄の他に、皆の鞄と一緒に沢山の紙袋が置かれていて、若しかして今日は何か持って帰らなければならない物でもあっただろうかと振り返り様に訊けば、
西村が『全部お前の分のバレンタインチョコだぁぁぁぁっ!!!』と一声叫んで、先程まで俺が寝ていたベッドに顔面から突っ伏し、そのままおいおいと泣き始めた。
衝立の向こうに座っている保健の先生から『静かにしなさい!』という注意の声が飛び、『済みません!…ほら、静かにしなさいってば!』と泣く西村に迫る笹田に、苦笑しながら西村を慰める北本の姿。
目まぐるしく変わる友人達の遣り取りに、呆気に取られ、目を丸くして眺めていると、田沼が苦笑しながら俺の肩を叩き、
「…帰ろう、夏目。荷物は俺達が手分けして、夏目の家まで持って行ってやるから」
「いや、そんなの悪い…」
「ほら、まだ体調悪いんでしょ?なら無理しないの!」
「そうそう。明日は華の週末!無理は禁物だ、夏の字」
…今までの人生の中で貰った事のない、優しい言葉の数々が耳に届く。
思わず溢れそうになった涙を何とか堪え、頭の痛みに一瞬ふら付いた俺の身体を咄嗟に支えてくれた皆の好意に、今日だけは素直に甘える事にした。
「…じゃあ、悪いけど、家まで荷物持ち、手伝ってもらって良いか?」
『勿論!』という、優しい友人達の笑顔と一斉の声。
保健の先生から再度『静かにしなさい!』と怒られたのは言うまでもない。
両手に紙袋を携え、6人を連れて藤原家に帰ると、塔子さんお手製のガトーショコラが、綺麗にラッピングされて待っていた。
「塔子さんお手製のチョコケーキっ…!」
「ガトーショコラだってば」
「いやもう何でもいいっ!チョコ最高ーーーっっ!!!」
「凄い喜び様ね…」
そのままガトーショコラを抱き締め潰さないかと、見ている此方が思わず危惧するほど、全身で喜びを表現している西村の様子に心底呆れているらしい笹田と、その様子に苦笑する多岐からも、其々にトリュフとチョコレートスフレケーキがプレゼントされている。
部屋の隅で揃って軽やかなステップを踏みつつ、くるくると喜びの舞を惜しみなく披露している辻と西村の様子に笑う北本と田沼の手の中にも、其々から手渡されたバレンタインチョコが鎮座し、
「併し、何か納得いかねぇんだけど…」
北本が苦笑しながら指差す先には、多岐に抱かれている先生が塔子さん達から貰ったバレンタインチョコの数々。
その袋の大きさが、この場でチョコを貰った男の誰よりも大きい事を北本が指摘すると、先生はにゃふん、と何処か勝ち誇ったような鳴き声を上げた。
猫らしからぬその太太しい態度に、後で殴っておこう。と心に誓う一方で、襖の向こうから塔子さんが顔を覗かせ、
「皆、明日は学校お休みだし、何なら夕飯食べて行かない?腕によりをかけて作るわよ」
「マジですか!?」
「塔子さんの手作り夕食っっ…!俺、生きてて良かったー!!」
更にテンションが高くなる辻と西村に、『お前ら!ちょっとは遠慮しろよ!』『そんな、悪いです!』とぶんぶん手を振りながら慌てて立ち上がる北本と田沼。
「じゃあ、私お手伝いします」
「私も。…あ、でも、その前に電話貸りても良いですか?遅くなるって、電話しなきゃ」
互いに顔を見合せて、夕飯作りの手伝いを申し出た笹田と多岐に、塔子さんは笑って、
「えぇ、どうぞ。…貴志君も、それで良いかしら?」
「…はい」
「ふふ、良かった。滋さんも今日は早く帰って来るって言ってたから、皆で一緒に夕飯、食べましょうね」
「はい」
――――前言撤回。今日は厄日なんかじゃない。こんなに騒がしい藤原家の夜を、俺は知らない。
いつの間にか多岐の腕から逃れて、俺の足元で顔を洗っていた先生をそっと抱き上げて、そのつるふかした暖かい背中に顔を埋める。
一体何事?!とじたばた暴れる先生を抱き締めたまま、俺は友人達と過ごす初めての夜に、思いを馳せた。