見上げた空には不気味なほど大きく、丸く満ちた金色の月。
この月と同じ瞳の色を持つ、何よりも大切な人は未だ己の腕に凭れ掛かったまま眠っている。
…本来、出逢う事は在り得ない筈だった。
『何故出逢ってしまったのだろう?』
…半神であるこの身を、“御子”としての『運命』を受け入れなければならなかったのに。
『何時まで一緒に居られるだろう?』
――――『疑問に思う事すら禁じられた運命』を、こんなに呪う事になろうとは思わなかった。
++ 泪月 ++
――――黄山・南領域『赤領』。
切り立った崖の上に建てられた城の主は静かに窓辺に歩み寄り、テラスへと続く扉を開いた。
その視線の先――――眼下に広がるのは己の直轄地『赤領』の街並。
先刻、この街で起こったあの“出来事”は何だったのだろう。
その“原因”とも言える黒紫色の髪の少女は、まだ目覚めない――――…
「…少しは落ち着いたどうだ?カイ」
テラスに出て、霞の向こうにうっすらと見える『赤領』の街を見下ろしていた自分に投げ掛けられた言葉を受けて振り返ったその先には、
少女の枕元に腰掛けて此方を見つめる、紅い生地に大きな白牡丹の花が描かれたロングチャイナ服を着た長身の女性―――名を、『朱雀』という―――の姿。
「まだ暫くは目覚めぬよ。…街でもそうだったが、この娘は衰弱しきっておるし…」
「まぁ、衰弱の原因は大体予想が付くけどね」
朱雀の科白を遮り、カイの寝台で眠っている少女の足元に立って、少女の顔を覗き込みながら言葉を発したのは、
朱雀とは対照的な、黒い生地に紅牡丹の花を描いたロングチャイナ服を身に纏った、朱雀と同じ顔をした長身の女性。
「衰弱している理由が判るのか?…黒朱雀」
「まぁね。カイにも判るでしょ?」
黒朱雀と呼ばれた女性は、そう言って寝台の側にあった椅子に足を組んで座った。
世界に4人しか居ない統治者、『世界の柱』であり“御子”である自分が継承した聖獣は2体。
うち一体は元から“憑いて”いたが――――併し、8年前に正式に朱雀を継いで“御子”となったカイには
街に下りるにも何かと制限が付いた。
聖獣を宿した者には、瞳の色に聖獣の貴色が現れ、おまけに確固たる証拠となる『印』までもが付随してくるものだから、
街に下りるだけでも逐一隠して変装しなければならない。
生まれてこの方、束縛されなかった日の方が少ないが…それでも、街の活気は自分の努力の証でもあって、
カイは滅多に無い暇を見つけては街へ降りていた。
そして、久方ぶりに降りた赤領の街で厄介事に巻き込まれ、腕の中に残されたのは衰弱しきった少女が一人。
通常ならその辺に預けるなりして、放って帰って来ていただろう。
…だが、少女から感じる「気配」は、あまりにも普通の人間の気配とかけ離れていた。
例えるなら、『御子』である自分と似たような――――…
「…そいつは普通の人間じゃない。
緑…いや、白い獣の気配、それから……額に『眼』があるな。……どれにしても、普通の人間が持っているものじゃない」
黒と赤を基調とした服を纏ったカイは、腕を組んだままきっぱりと言い切った。
「じゃあ、この子は一体何者?」
「…もう判ってるだろうが」
「カイは冷たいわねぇ……昔はあんなに甘えん坊だったのに…ねぇ、くーちゃん?」
黒色の鳥の羽で作られた扇を広げ、扇の陰に顔を隠して泣き真似をしながら朱雀は黒朱雀に同意を求める。
「そう?私は大して変わらないと思うけど…――――って、その扇、私の羽で作ったでしょ!!」
「あら、よく気付いたわね。くーちゃんの羽を赤領の細工屋に持って行って、扇に加工してもらったのv
加工師さんにも褒めてもらったのよ〜『とっても綺麗な羽根だ』ってv」
「当たり前でしょ!仮にも鳳凰の羽なんだから!!」
「何よりも、くーちゃんの羽は昔から黒光りしてて綺麗だから作り甲斐があるわよねぇ…」
「そういう問題じゃないでしょ!私の羽返してよ!!」
「あら良いじゃない少しくらいv…第一、もう抜けた羽でしょ?」
「それでも嫌なのよ!!あぁもう姉さんは何でも装飾品にしちゃうんだから…
前も青龍と黄龍の鱗剥ぎ取ってたでしょ!あの後2人に泣き付かれて大変だったんだから!!」
「泣き付いてくるような可愛い弟達で良かったじゃないの、お姉ちゃんv」
「可愛い弟達を泣かせるアンタもお姉ちゃんでしょうが!!」
「…姉妹喧嘩なら他所でやれ!」
カイの一喝が部屋に響き、2人は漸く沈黙した。
「何にせよ、何処の領域の御子なのか判るまでは如何しようも無い。
…この者の事は他の者には知らせるな」
「「御意」」
――――黄山・南領域『赤領』の城の一室で交わされた“御子”と“聖獣”の会話がどれだけ重要な意味を持っていたのか、
現地点でその意味を理解出来た者が居れば、運命はまた変わっていたかも知れない――――…
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同日、黄山・東領域『青領』。
広い広い邸の中から上がった大声は、いつもと同じ日常を約束してくれるものだった。
「待てコラ大地〜〜〜〜〜〜っ!!!!俺の焼き秋刀魚返しやがれ!!!!!」
「もう食っちまったよーだ!」
「何だって?!」
「タカオよりオイラに食ってもらった方が幸せだって、秋刀魚が言ったんだ〜!!」
「そんな事秋刀魚が何時言ったんだ!!!…って、待ちやがれコラーーーー!!!!」
「…また始まったの?キョウジュ」
広い邸の庭中を駆け回る兄と義弟の2人を縁側の廊下から眺めた女官―――ヒロミ―――は、
同じく廊下に座っていた薬師の少年―――キョウジュ―――に声を掛けた。
「えぇ、今回はタカオには内緒で、大地にも手伝ってもらってるんですよ。
変なところで不器用と言うか…何時まで経っても『黄龍』を使いこなせませんからね…我等が“御子”は」
溜息をつきながらもキョウジュは手を休めず、幾種類かの薬を調合した粉を少量の水が入った小瓶に流し込んだ。
太陽の光に透かしながらくるくると瓶を回すその作業は手馴れたものだが、
「今日のはまた凄い色ね……毒入ってるみたいな色じゃない」
キョウジュが振った瓶の中の水は毒々しい紫色に変わり、良薬というよりは毒薬に近い色をしていた。
『私なら絶対御免ね』――――心の中で一人独白したヒロミは、近い将来にこの“薬”を飲む羽目になるであろう、
相変わらず義弟と追いかけっこを続ける“御子”を見つめ、今は家を出ている2人の兄の事をふと思い出し、平和な日常に静かに微笑んだ。
「ほら、タカオ!!こういう時に黄龍を使うんですよ!」
廊下に座っていたキョウジュの声が飛び、
「あ…そうだな!…大地、これでも食らいやがれ〜〜〜っ!!!」
そう叫んだタカオは、大地に向かって右手を突き出し――――手の甲の『印』が一瞬光ったかと思った瞬間、邸中を突風が襲う。
「きゃああっ!」
広い庭園の草木の葉や屋根瓦が何枚か吹き飛ぶ中、凄まじい突風に廊下から飛ばされそうになり、慌てて近くの柱にしがみ付いたヒロミの背後で、
ドーン!!!という、何か重い物が崩れ転がり落ちたような重い破壊音が鳴り響いた。
「な、何の音…?」
「あああもう〜!!!」
柱に縋りながら立ち上がった先、廊下の角で大声を上げたキョウジュの目に映ったのは、
邸の後ろにあった黄山の崖の一部が崩れ落ちた様。
如何やら、先程の“風”の攻撃の一部が、黄山の一部に当たってしまったらしい。
屋敷の中からは、他の官や女官の悲鳴が聞こえてくる。
「…ヤベ…青龍と間違えた…」
「「『間違えた』じゃありませんよタカオ!!」」
見事にハモった非難の声は、突如タカオの前に出現した青く長い髪を銀の輪で留めた青年―――青龍―――と、キョウジュのもの。
青龍の後ろでは、青龍と同じく何時現れたものか、青龍によく似た顔立ちの、茶色の髪を短く刈った青年―――黄龍―――が、
「あちゃ〜…」とか何とか言いながら、頭痛でもするのか、額から顔の右半分を右手で抑えている。
「タカオ!何で其処で青龍を召喚するんですか!!」
「お屋敷の屋根に大きな穴が開いちゃったじゃないの!!」
「タカオ〜…いい加減俺の“力”の使い方も覚えてくれへん?」
「確かに、今回の被害は如何せん酷いからな…」
キョウジュ、ヒロミ、黄龍、青龍から一様に非難の声を浴びせられた“御子”は、暫くの後に「…御免」と小さくなりながら一言謝った。
…勿論、その間に彼が追っていた泥棒猫―――彼の義弟―――がまんまと青領の街へと逃げ果せたのも、また事実だったりする。
「…ところで、大地はどうしたの?タカオ」
「大地?…あ゛あっ!忘れてた!!俺の焼き秋刀魚ぁっ!!!」
「ちょ…待って下さいタカオ!!薬が…そのままでは街には行けませんよ!!」
思い立ったら即実行と、青領の街へ向かう道へと駆け出した“御子”を慌てて引き止めた薬師の少年が手渡した物は、先程の毒々しい薬と一組の手袋。
「サンキュー、キョウジュ…って、凄い色だな今日のは…」
「その科白はヒロミさんにも頂きました」
半ば呆れながら、キョウジュから小瓶を受け取ったタカオは、中の液体を一気に飲み干した。
タカオが“御子”である事を示す幾つかの『証拠』のうちの一つ――――己の身体に宿した聖獣の貴色が現れた茶色い右目と紺色の左目の色を隠す為、
キョウジュがタカオ専用に作ったこの“薬”は、御子の持つ特異な瞳の色を、ヒロミ達と同じ深緑色の瞳に変える効力を持っている。
「う゛〜…不味ぅ…」
「失礼ですね!それでも甘くしてあるんですよ!!」
むっとした顔で文句を言いながら、キョウジュはタカオに手袋を手渡す。
タカオが嚥下した“薬”は一拍の後に効果を現し始め、
瞳に深緑色が定着する頃には両手の甲にある『印』も、手袋で隠し終わっている。
「何度も言いますけど、その薬は半日しか持ちませんから、半日以内に帰って来て下さいね」
「判ってるって!」
返事もそこそこに街へと駆け降りていく“御子”の後を、2人の青年―――タカオを“主”とする“聖獣”達―――が追って行く。
「街で騒ぎが起きないと良いんですが…」
……同じくタカオを見送ったヒロミの横で小さく呟いたキョウジュの予感が中ったのは、その日の午後の事だった。
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同日午後、黄山・北領域『黒領』。
街の大通りに現れた奇怪な“物体”は一体何だったのであろうか。
「あ、そこのお嬢さん!自家製のマヨネーズなんですけど、お一つ如何です?」
…全長2m、ご丁寧に葉っぱの先まで可愛らしくデフォルメ再現された、人参の形をしたお手製らしい着ぐるみを着て、
その上にフリルとレースのたっぷりついた、薄ピンク色のハートエプロン―――何故だか知らないが、ハートの中央には『新妻』と書かれた赤い刺繍まで施されている―――を着た、
笑顔はステキだが、如何せん格好があまりにも怪し過ぎる青い髪の青年は、偶々側を通り掛った赤い髪の少女に声を掛けた。
「マヨネーズ?」
「えぇそうなんですよ。あ、何なら試食してみます?美味しいですよ〜」
…等と言いながら、人参はちゃっかりと立ち止まった少女の手をしっかり取り、
人参を細長く切った人参スティックを少女に握らせると、何処からか大きめのタッパーに大量に入ったマヨネーズを差し出した。
傍から見れば性質の悪い勧誘か、変態軟派に捕まっているようにしか見えないのであるが、少女は至極真面目に応対し、
怪し過ぎる格好をした青年が差し出したマヨネーズを、人参スティックの先に少しだけ付けて齧ってみた。
「…あら、これ美味しいv」
「そうでしょ?…ってな訳で如何です?貴方もマイマヨ同盟に入りませんかおぶっ!」
にこやかな笑顔で何時までも少女の手を握っていた人参の顔へ、何かが激突したらしい。
一瞬のうちに目の前で地に伏した人参に駆け寄ろうとした少女―――サリマ―――を引き止めたのは、彼女の同行者だった。
「行くぞサリマ。そんな性質の悪い勧誘に引っ掛かるんじゃない」
「え?ええ…」
…時折ピクピクと痙攣しながら地面に伸びている人参を一瞥したケインは、地面に落ちていた独楽―――先程人参の顔に激突したのは此れらしい―――を拾うと、
サリマを連れて足早にその場を歩み去った。
……2人が歩み去った後、2mの人参は、自身が攻撃された際に飛び散ったマヨネーズの制裁を全身に浴びた民衆から袋叩きの刑に遭ったという。
「そ・こ・の・蒼い髪のおねーさん!マイマヨ同盟に入らなイ??」
「…何?アタシに言ってんの?」
呼び止められて振り返ったマリアムの視線の先に居たのは、曇り空なのにも関わらずサングラスを掛け、
手にマヨネーズを持って此方の方ににっこりと笑いかける、右腕の上腕部に黒緑色のバンダナを巻きつけた怪しい外見の金髪の少年が一人。
少年の背後には、緑色と白色を基調としたチャイナ服を身に纏った、セミロングの黒髪を紅真珠と紅い垂れ房の付いた髪飾りで留めた女性が静かに立っている。
「Yes.おねーさんもマヨネーズ食べてみなイ?おいしーヨv」
「…って言うか、マヨネーズ云々の前にアンタ自身が怪し過ぎるわよ」
「Ouch!やっぱりこのサングラスの所為かナ〜…うっかり飲むの忘れちゃってサ☆」
「忘れるって、何を…」
「何やってるんだマリアム。早く行くぞ」
先行するマリアムの同行者が、彼女が側に居ない事に気付いたらしい。
立ち止まって何事かと此方を見ている。
「ちょっと待ってー。…あ、これ美味しいわねv」
「でショ〜。ね、だからマイマヨ同盟入らなイ?今ならキャンペーン実施中につき人参の人形も付いてくるんだヨ?」
そう言って少年がマリアムに差し出した人参の人形の背中には、何故か可愛らしい天使の羽根がついている。
「人参人形ねぇ…」
「マリアム!!」
「あぁもうすぐ行くから!…じゃあね、胡瓜スティック美味しかったわv」
「マヨネーズは?ねェちょっとおね〜さ〜ん!!」
足早に駆けて行ってしまった少女の後姿は、通りを行き交う人の波に飲まれて直ぐ見えなくなってしまった。
「あ〜あ、チャンスだと思ったノに…」
「マックス、もう近くにあの女子は居らぬようだが…ところで、まだ“マヨネーズ”の布教を続けるのかや?そろそろ帰らねば皆が心配する頃だが…」
「玄武…そうだネ、今日はもうお開きかナ〜…また明日頑張ろっと♪」
後ろで控えていた黒髪の女性―――玄武―――に諭されて、立ち上がったマックスの目に映ったのは、
ボロボロになった人参の着ぐるみを後生大事そうに抱えてとぼとぼ帰ってきた、青い髪の青年の姿。
「Oh!一体如何したネ!!」
「いやまぁ色々ありまして…お役に立てなくて申し訳ないです」
心底申し訳無さそうな顔をする青年に対し、
「良いヨ良いヨ。また明日頑張れば良いからサ。…明日も宜しくネ、“忍仁”さん☆」
そう言って屈託なく笑う少年を見た青年の脳裏を過ぎったのは、目の前の少年とは同年代位であろう“弟”の姿。
久しく家には帰っていないが、誰よりも辛く、重い宿命と運命を背負った弟は元気でやっているだろうか。
――――…兄が弟を想って独り感傷に耽っていた頃、肝心の“弟”は、相変わらず力をコントロールしきれずに、青領の街の一角を破壊していた。
……そして、『世界』に1つの小さな『波紋』が起こる。
小さな波紋はやがて大きな波紋へと広がり、世界全体に静かに浸透していく。
世界を乱すその『波紋』を起こす“原因”を、『世界』の運命を変えてしまう“鍵”を、青年は暫くの後に手に入れる事になる――――が、それはまた別の物語(はなし)。
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黄山・南領域『赤領』。
昼間に赤領の街に降りた時に運悪く“眼”に影響を受けて、そのまま気を失ってしまった彼女は、
夜になって空に月が浮かんだ今となっても、未だ目を覚まさない。
――――『世界の“調和”を、“調律”されたこの世界を壊してはならない』――――
先代の“御子”が、毎日自分に言い聞かせていた言葉。
自分を“戒”め、縛り付ける見えない『鎖』。
今は亡くなりし先代・戒音が自分に残した“言霊”の力――――『戒めの音』。
『疑問に思う事すら禁じられた運命』であるこの身が、『半神』が自身の“半身”を求める事は赦されないのか――――…
血のように紅い瞳を持った少年がふと見上げた月には、その胸中と同じく霞が掛かり始めていた。
「――――戒音が遺した“言霊”の力ですら、もう効かぬか…」
朧月夜が照らす赤領の城の屋根の上で、大きな白牡丹の花がよく映える、紅いロングチャイナ服を身に纏った朱雀は、
階下で西領域の“御子”と共に寄り添ったままの主の姿を見下ろして、小さく呟いた。
「仕方ないよ…カイは“普通”の御子じゃない」
長い黒髪を夜風に吹き晒しながら、朱雀の言葉に返答したのは黒朱雀。
「幾ら五百年もの間、『世界の柱』を支え続けた戒音の後継者とは云え、カイは“普通の御子”じゃないんだ…
五百年もの間、火渡一族に“御子”の資格を持つ者が現れなかった事と何か関係があるのかも知れぬが、それでも…」
「確かに、カイはあの娘のように、御子特有の“眼”は持っていない。
…だが、我等2人を1つの身体に宿せる者など、これまでの“御子”には存在しなかった…況してや、我等の力を完全に使いこなす事の出来る“御子”など…」
其処まで答えた朱雀は、霞月を見上げながらポツリと呟いた。
「あの子は…カイは、そう言う意味で“異常”―――いや、寧ろ我等に近い、“御子”としては『化物』に近い存在だよ。
確かに、我等のような聖獣を2体同時に宿している“御子”は東領域にも居る。だが、そやつはカイのように我等の“能力”を、全て引き出せる訳ではない。
何より……まだ戒音が逝って8年しか経っていないのに、カイは戒音の遺した“言霊の鎖”を、もう断ち切ろうとしている―――然も、無意識にな」
「その“原因”はあの娘…いや、“御子”か……運命とは皮肉なものだな。
自身の運命を疑問に思う事は赦されぬと言うのに………それでも、愚かに生きる事を選択しようと言うのか?!」
黒朱雀の口から吐き出された激しい言葉。――――あの2人が出逢った地点で既に『世界』の調和は乱された。
「“調律”が上手く行われていないこの世界で、あの2人が共に在る事など赦されぬ!
あの2人が共に在ると言う事は、世界の崩壊をみすみす招くようなものだ!」
「…確かに、あの娘の身に起きた事…未開の地であるが故に護られていた『白領』から引き摺り出された事は、“眼”を持つあの御子にとっては不幸な事だったと思う…
何重にも張り巡らされた護符に護られたこの城に居て、漸く“眼”に影響を受けるか受けないかという有り様だ。
我らと出会ったあの時までに、“眼”に受けた影響の反動で死んでいてもおかしくは無かっただろうよ。
“世界”はもう傾き始めてるんだ…現に、日に日にあの子が“眼”に世界の水面下で起きている変調の影響を受けて苦しむ回数が増えておろう?」
「判っている…あの御子が生きていようが死んでいようが、『白領』から出てしまった以上は『世界』が揺らぐ事に変わりは無い。
今更白領に帰そうにも、帰す道中で“眼”に受ける影響にあの娘の身体が耐えれるとは思えぬ。途中で命を落として死んでしまうだろうな。
…だが、だからと言って今の状況を放っておく訳にもいかぬであろう?!」
「答を出すのはあの2人だよ、黒朱雀――――我等は世界を“守護”し、御子を“護”り、“補佐”する『命』だけを背負った存在だ。
兄様が…麒麟が何も言わない限りはな」
「ーーーっ!」
『麒麟』と言う名を聞いた黒朱雀の顔を過ぎった面影を見遣って、朱雀は再び霞んだ光が降り注ぐ空を見上げた。
城から少し離れた黄山の崖先に立ち、赤領を見下ろす赤い髪の少年の眼前に広がるのは、大きな朧月夜。
真っ直ぐにその月を見詰めていた少年の心に去来したのは、金色の瞳を持った少女の姿。
「――――…御子の“運命”なんて、壊してしまえば良い」
…小さく呟いて、その紫色の瞳を伏せた彼の横には、銀色の大きな狼が静かに寄り添っていた。
『―――へぇ、そうなんだ』
静寂が支配する、静まり返った皇城の中に響き渡った声は明朗で、
『併し…この事態が長く続けば、世界は確実に崩壊するぞ』
腕を組んで真面目に意見を述べるものの、彼は一向に笑みを崩さない。
『…で、如何するの?ブルックリン?』
肩の上に虎模様の小動物を乗せ、無邪気な笑みを浮かべて戯れながら質問した彼の方へ視線を向けるも、
悠然とした微笑みは変わらないまま。
『それは僕の判断する事じゃないよ、ミステル』
そう言い終えた後に、ブルックリンは背後の宮城―――太極宮―――へと振り返り、4人の“仲間”達を代表して、口を開いた。
『…さて、聴いての通りですが…如何しますか、“麒麟”様?』
…柔らかい月の光が差し込む広い皇城の中に、5人分の嘲笑う声が響き渡った。
――――…見上げた空には不気味なほど大きく、丸く満ちた金色の月。
この月と同じ瞳の色を持つ、何よりも大切な人は未だ己の腕に凭れ掛かったまま眠っている――――…
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