幼い頃、子猫を…拾った。
冷たい雨の降る中、綺麗な黒い毛並みを濡らした子猫が、琥珀色の瞳で俺を見上げていた。
―――鳴きもせず、只じっと俺を見つめて。
抱き上げると、そこで初めて小さな、何処か甘えたような鳴き声を上げた。
家まで連れて帰ると、使用人達が子猫を綺麗にしてくれて。
…その日の夜、小さな鈴が付いた首輪をつけてやると、子猫は懐いたように俺に擦り寄って来て、そのままベットの枕元で早々に丸まって眠ってしまった。
次の日の朝、幽かに鈴の音が聞こえたような気がして、目が覚めた。
音のした元を探そうと偶々振り返ったその先―――開いた窓の淵に、昨日拾った子猫が座っていて。
陽光に透けて輝くその琥珀色の目と合った途端、子猫は――――…。
+ + + + +
風化風葬 + + + + +
「カイ!おい、いい加減起きろ!!」
朝から騒々しい声が耳元で聞こえる。
「……五月蝿い…」
「人がご親切に起こしてやってるのに、『五月蝿い』はないだろう!」
薄く目を開けると、この部屋の同居人―――レイがベットの脇に立って此方を見下ろしていた。
「――――…。」
「やっと起きたか…」
呆れたような顔をして呟く彼の後方にある窓からは真っ白な朝の光が差し込み、あまりの眩しさに反射的に瞼を閉じてしまう。
「……………。」
「おい、こら寝るな。」
…耳元で騒がれるのは傍迷惑だが、声音から察するに、まだ暫く目を閉じていても怒り出すような状態ではない事を察知した俺は、彼の声を無視して目を閉じた。
それにしても。
久しぶりに昔の夢を見たと思う。
そもそも、『夢』自体見る事が殆ど無い俺にしてはとても珍しい――――
『そう言えば、あの時の子猫はあの後どうしたっけ…?』
今の家にあの黒猫は居ない。
『いつから居なくなった?』
試しに昔の記憶を手繰り寄せてみるが、いつ居なくなったのか全く思い出せない。
…あの時は、確か…窓辺に座っていた子猫と目が合って、それから……それから子猫はどうなったんだったか――――…
「おい、カイ!…聞いてるのか?」
記憶の発掘作業が彼の声によって中断される。
再び薄く目を開くと、レイが腰に手を当てて此方の顔を覗き込んでいた。
今は丁度彼の体が窓からの光を遮っていて、少しずつだが目を開く事が出来る。
『…普段は奴の方が寝ていて、起こすのはいつも俺なのに、何で今日に限って逆なんだ?』
今は何時だ?彼に起こされるような時間まで眠ってしまっていたのだろうか?
「カイ?」
…ま、良いか。丁度奴も良い所に居る事だし、奴に聞けばいい。
「聞こえてるならいい加減起きろって―――うわっ!!」
――――突然、ベットの主に腕を引っ張られる。
まだきちんと整えていない長い髪を緩く束ねて、軽く結わえただけだった紐が体勢を崩した時の衝撃で解け落ち、
光に当ると少し紫がかって見える黒髪は宙を舞い、そのまま体勢を崩したレイは見事に顔面からカイのベットに突っ伏した。
「痛った…いきなり何するんだっ…」
「…………窓の光が眩しい」
「…は?」
「だから、眩しくて目が開けられない」
「……………」
少し赤くなった鼻の頭を抑えながら、少し涙を浮かべた金の目を瞬かせたレイは、俺の顔を覗き込んだ後、途端にくすくすと笑い始めた。
「…何がおかしい」
「いや……すまん」
「笑いながら言われても謝ってるようには見えんぞ」
ベットの脇にペタリと座り込んだレイの瞳は、先程までとはうって変わって笑い過ぎの涙を浮かべている。
「……何がおかしい?」
手を伸ばして涙を拭ってやると、彼はまだ何処か笑いに引き攣った笑みを顔に浮かべたまま此方を見る。
「いや…、カイにしては随分甘えた事言うなぁと思って。」
「何だと?」
「いやいや、何でもないよ♪
…ま、良いよその位。眩しくて目開けられないんだろ?カーテンくらい閉めてやるからさ」
そう言って彼は立ち上がり、足元まである黒髪を束ね直そうともせずに窓に向かう。
レースのカーテンだけで良いよな?とカーテンに手を掛けながら此方に振り返ったレイの瞳の水晶体を通った朝の光が、
透明度の高い琥珀のような金色を鮮やかに浮き立たせる。
……でも、その綺麗な黄金色の宝石の光に、何処か既視感を覚えるのは気の所為だろうか―――…?
「うわっ…」
タイミングを計ったように突然窓に吹き込んだ風が、白いカーテンとレイの黒髪を翻弄する。
そして、ベットの上でそれを見た俺の中で、突然記憶が逆流した。
――――そうだ、漸く思い出した。
…あの琥珀色の瞳の子猫は、あの時ベットの上に起き上がった俺の方を振り返った後、3階の俺の部屋の窓から、俺の目の前で飛び降りて死んだんだ――――。
「カイ?!」
「………………。」
「カイ?…どうかしたのか?」
強風が吹いた途端に、自分の所へ風のようにすっ飛んできたカイは、そのまま俺を抱き締めてその場に座り込み、身動ぎ一つしない。
「カイ…?」
俺の髪に、肩に顔を埋めたまま返事も返さない。
「なぁ、どうしたんだ?」
心なし彼が震えているような気がして、再度訊いてみる。
「………………。」
返事無し。
『仕方ないなぁ…』
心の中で一つ溜息をつくと、レイはカイが放してくれるまで、彼の腕の中で暫くじっとしている事に決めた。
―――思い出した。
あの子猫が窓から飛び降りたあの日の朝を。
眩しい光が降る中で、窓の下に広がった赫い血の花を――――…
「カイ?!」
―――あの時、振り返ったレイの金に透けた瞳が、あの子猫の瞳と重なった。
綺麗な琥珀色の瞳。
その色がとても儚く見えて、あの子猫と、レイが重なって見えて、
「カイ?…どうかしたのか?」
あの子猫のように、絶対に手の届かない世界にレイが行ってしまうような気がして、
「カイ…?」
…気付いたらベットを飛び出していた。
眩しい光に融けてゆく彼を手放したくなくて、遠くに行ってしまわないように、連れて行かれないように必死で手を伸ばして――――抱き止めた。
「なぁ、どうしたんだ?」
ただただ怖かった。レイが俺の前から居なくなる事が――――…
『そろそろタカオ達も起きる頃かな…?』
自分達以外のメンバーが寝泊りしている木ノ宮宅は、この部屋のあるマンションからさして離れていない。
…それにしても、何時までこの体勢で居れば良いのだろう。
この体勢を作り出した張本人―――カイは俺を抱き締めたまま身動ぎ一つしないし、かと言ってあからさまに様子のおかしい彼に幾ら問い掛けても返事はゼロ。
中途半端に座りこんでいる所為で足は段々痺れてきているし、出来ればいい加減腕から開放してもらいたい―――
「昔…」
「え?」
彼にしては珍しく、か細い声で突発的に話し掛けられた言葉。
「『昔』…が何か?」
「………猫を拾ったんだ。…綺麗な黒い毛皮で、お前と同じ金の瞳だった。」
「へぇー。それでその猫がどうかしたのか?」
「次の日の朝、俺の目の前で死んだ。」
「……………」
『俺の目の前で死んだ。』
そう辛そうに呟いた彼の腕の力が一層強くなる。
「何で…いきなりそんな事を」
「夢を見た…アイツが飛び降りる直前までの…」
「……………」
「夢に見るまで、忘れてたんだ。なのに…」
漸く俺の肩に埋めていた顔を上げたカイの顔を覗き込むと、いつも自信に溢れている彼の紅い瞳が揺れている。
…普段なら有り得ない光景だった。
カイが何を恐れているのかは、俺には良く判らない。
けれど、彼が“何か”を恐れているのは事実で。
『何をそんなに怯えている?』
…俺には、判らない。
どうしたら彼を救ってあげられるかも判らないし、きっと俺なんかに彼を救う力なんて無い。
『どうすれば良いんだろう?…どうすればカイを助けられる?』
―――…いつもそうだ。
重い立場に縛り付けられている彼。
自分の感情を抑えて、押し殺して、独りきりで、
――――ずっと、踊らされて。
『何か、してあげたい。』
…そう思っても、いつも何も出来なくて。
何も出来ない、何をしたら良いのか判らない自分が歯痒くて、情けなくて。
――――…それでも、『彼を助けたい』と望まずには居られなくて。
「なぁ、カイ」
肩に寄り掛かって、カイの顔を覗き込む。
「俺はカイの側に居るよ」
はっとしたように顔を上げるカイの、柘榴石の色をした瞳を真っ直ぐ見つめる。
「何処にも行かない。カイの側に居るから、だから――――」
+ + + + + + + + + + + +
『そんな顔しないで』…という筈だった言葉は永遠に言えなかった。
――――…いや、言わせてもらえなかった。
窓から降る陽光はとても暖かくて、
結局、その日は一日中腕の中から開放してはもらえなかった。
でも、たまにはそんな日があっても良いんじゃないかとも思う。
彼が、こんな顔を見せてくれる日くらいは。
一緒に居よう。
…きっと、目に見えないものは、目に見えるものよりずっと恐ろしいから。
――――もう一度強い風が部屋に吹き込んだ時、幽かに鈴の音が聴こえた気がした。
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